はじめに  「花咲か爺さん」のポチ

犬を飼ってみないと犬の素晴らしさは分からない。それと同じに蒔かない種はいくら待っても芽をだしません。しかし、「涙と汗で蒔く種は、やがて喜びの収穫の時を迎えることが出来る」。この聖書の言葉を信じて、「花咲か爺さん」の民話に一歩でも近づけるように、とにかく書きはじめよう。「涙と汗」の言葉の意味は、私の場合、今は、天国へ旅立ってしまった、何頭もの犬たちと、もう一度、正面から向き合うことによる、喜び、悲しみ、悔恨、反省、懐かしさ、新たな発見や感動などに起因するものとなるでしょう…。

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私は東京町田にある神学校を卒業すると同時に、北アルプスの麓、安曇野にある教会の牧師として、また、この本のおもな舞台となる幼稚園の園長として着任した。まだ五歳だった長男と、二歳と一歳になった長女と次女、そして妻の私たち家族五人を乗せた車は、県境の高く長い峠を越えて、四月に入ったというのに、湿った雪の激しく舞う、安曇野の地に入った。

そして上高地から日本海へ流れ下る犀川沿いの道路を、私の運転する車も、流れに沿って北へ向かった。やがて車窓の左に、私たちは風雪にかすむ安曇野の景色を目にしたのだっだ。

そして、この安曇野の地で、三女が、次男が誕生し、私たち家族は七人家族となり。風雪の中、安曇野に到着したあの日から三十年の歳月が流れた。この地で出合った多くの人々、そして多くの幼子たち、そして、犬たちとの日々…。いつしか、私は夕暮れには、必ず犬たちと散歩をするようになっていた。

そして、私にとって、犬は、私の生活になくてはならない存在となっていた。特に何かがあったり、考えがあって、こうなったのではなかった。あえて、その理由を問われるなら、「出会いがあったからです」と、答えるしかない。

こうした、私にとって家族同然に大切な存在となった犬たちの持つ、様々な素晴らしさ、いのちの輝きなどを、いつしか、書きとめておきたいと思うようになっていた。安曇野の地ではじめて出合った、とても個性の強かったハスキー犬のジョンが、十二歳で、この世を去った。その別れの悲しみを味わった頃から、犬たちとの思い出を、また、私と出合ってくれたことへの感謝の思いを、どうしても書きとめて、おきたいと強く思うようになった。

そこで、私が少年の日に、また二十代の後半に大阪の児童福祉施設で、さらに現在の安曇野の地で出合った犬たちとの生活の日々の思い出を、年月などの順番には、こだわらず、思い浮かぶシーンを核にして、テーマを決めて、犬たちのように素直に正直に、書き記して行こうと心を決めたのです。

犬が人間のパートナーとして共に生きて来た歴史は古い。エジプトのピラミッドの中で、そうした証拠も発見されている。この日本においても、民話の「花咲か爺さん」は有名である。

この民話のあらすじは、「心安らかで堅実に暮らす心優しい老夫婦が、一匹の白い仔犬を拾いわが子同然にかわいがって育てる。ある日、犬は畑の土を掘りながら「ここ掘れワンワン」と鳴き始める。驚いた老人が鍬で畑を掘ると大判・小判の金貨がザクザクと出てきた。老夫婦は喜んで近所にも振る舞い物をした。

それをねたんだ隣人夫婦は無理やり犬を連れ去り、財宝を探させようと虐待した上、期待はずれのガラクタが出てくると逆上し、犬を殴り殺し飼い主夫婦にも悪態をついた。

わが子同然の犬を失って悲嘆にくれる夫婦は、犬の死体を返してもらい庭に墓を作って雨風から犬の墓を守るため木を植えた。その木が大きくなったころ、夢に犬が現れて臼を作るように助言する、夫婦が臼を作ると餅をつくたびに財宝があふれ出た。

再び隣人夫婦は難癖をつけて臼を借り受けるが、出てくるのは汚物ばかりだった為、怒って臼を叩き割り燃やしてしまう。

夫婦は灰を返してもらって大事に供養しようとするが、再び犬が夢に出てきて桜の枯れ木に灰を撒いてほしいと頼み、その言葉に従ったところ花が満開になりたまたま通りがかった大名の殿様が感動して老人をほめて褒美を与えた。やはり隣人夫婦がまねをするが、花が咲くどころか大名の目に灰が入り、悪辣な隣人は無礼をとがめられて罰を受ける」。

この「花咲か爺さん」の民話は歌にもなった。1901年(明治34年)に幼年唱歌として出版されている。その歌詞では、犬の名前は「ポチ」となっている。この民話から、いろいろなことを教えられる。また様々な解釈もあろう。私は、この民話を次のように受けとめている。

それは、一言でいえば、「犬には素晴らしい宝が隠されている」ということである。一匹の子犬を拾い我が子同然にかわいがって育てる中で、そこに今まで気づかなかった、隠されていた宝を発見する。犬は死んでもさらに、多くの希望を、生きる勇気を人間に与えてくれる。そうした尽きることのない素晴らしい宝を犬たちは隠し持っているのです。

犬を飼ってみないと犬の素晴らしさは分からない。それと同じに蒔かない種はいくら待っても芽をだしません。しかし、「涙と汗で蒔く種は、やがて喜びの収穫の時を迎えることが出来る」。この聖書の言葉を信じて、「花咲か爺さん」の民話に一歩でも近づけるように、とにかく書きはじめよう。「涙と汗」の言葉の意味は、私の場合、今は、天国へ旅立ってしまった、何頭もの犬たちと、もう一度、正面から向き合うことによる、喜び、悲しみ、悔恨、反省、懐かしさ、新たな発見や感動などに起因するものとなるでしょう…。

後半の章で必ず触れようと思いますが、私は人間が天国への招待を受るなら、犬たちこそ、人間に先駆けて招待を受けることになると信じています。その天国で、ハスキー犬のジョンをはじめとする多くの犬たちが、きっと、この私の執筆を応援してくれることも信じて…。さあ、犬はERAI!の物語を始めよう。

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第一章1「忠犬ハチ公の銅像」

世間の人間が、犬の飼い主が駒場の大学の教授ということで、このハチくんを特別視したことはあったかもしれません。しかし、そのことと、この「忠犬ハチ公」の物語の価値とは全く関連するものではなく、「犬はえらい」の一面を正しく世間に知らしめた歴史的真実なのです。

Inu1003bh犬はえらい。それは「忠犬ハチ公」が今も渋谷駅前に銅像として建てられている事が証明している。この「忠犬」の二文字は、実は全ての犬に当てはまるのです。私はそう思っている。

日本の武士道に生きた人々の中で、いや、もっと広く見てもいい、そう日本の歴史の中で、自分の主君のために命を捧げた人々は多い。しかし、中にはダメな人間もいた。しかし、犬はどんな犬も三日飼ってもらえば、その人への恩を一生忘れないと言われている。その通り「犬はえらい」のです。

この「忠」という言葉の意味をどうか、信頼できる辞書などで調べて確認して欲しい。忠犬ハチ公は秋田犬だった。そして子どものなかった偉い先生に、子犬の時にもらわれ、飼ってもらうことになった。それから十七ヶ月、自分を本当の子どものようにして可愛がってくれた飼い主の偉い先生は駒場の教室で倒れ、そして帰らぬ人となってしまいます。

その事を知らないで、二歳前の「ハチ公」は自分が死ぬ十一歳まで、帰って来るのを待ち続けたのです。知らない方もおられるかと思いますが、この「ハチ」くん…(ほら、ようやく親しみやすい普通の犬に感じられるでしょう…「忠犬」が本名の前についたり、銅像になって建てられたりすると、何か別格の犬のように感じてしまいますよね)…しかし、このハチくんは、先生が漢字の「八」の字は、どっしりと大地に立つ字体だから、そんな犬に成長して欲しいとの願いを込めて命名したようです。

そして、その通りハチくんは、銅像となって今も渋谷駅の前に、「えらい犬」たちを代表して立ち続けているのです。先生夫婦には子どもがいませんでした。だから子犬の時からとても可愛がり、今ではごく普通の事かもしれませんが、当時としては驚くことで、畳の部屋にまで入れて、家族の一員として受け入れていたのです。

そんな先生を、私はさすがだなーと思います。今も日当たりの良くない玄関先などに一日中クサリで繋がれている犬たちの姿を、私は悲しい思いであちこちにみかける。しかし、どうか、忠犬ハチ公の飼い主だった駒場にある大学の先生がそうだったように、家族の一人、自分の子どもの感覚で、ぜひ「えらい犬」たちを心から迎え入れてやってほしいと思います。

必ずや、犬たちはその恩に報いてあまりある豊かなものを有形無形に与えてくれるのです。どんな飼い主に対しても、人間のように肩書きや外見や学歴で差別したりしないのが犬です。忠犬ハチ公も、自分の主人が駒場の大学の先生だったとか、なかったとかは全く関係なく慕ったのです。

むしろ、世間の人間が、犬の飼い主が駒場の大学の教授ということで、このハチくんを特別視したことはあったかもしれません。しかし、そのことと、この「忠犬ハチ公」の物語の価値とは全く関連するものではなく、「犬はえらい」の一面を正しく世間に知らしめた歴史的真実なのです。

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第一章2「犬二頭、市民プールで泳ぐ」

こうした犬たちの自由を大切にすることは、幼子たちや人間の自由を大切にすることにもなります。ここで言う自由とは、日本の禅文化を海外にも広めた仏教学者、禅学者として知られる鈴木大拙(1870年-1968)先生の言う自由です。
西洋の、英語やフランス語、またドイツ語などが意味する「自由」とは全く異なる、東洋的な「自由」です。英語などでは、特にドイツ語などでは二元論の、~からの自由が強調され、束縛するもの(敵)からの自由となりますが、東洋的、日本的(仏教の)自由の深い意味は、自然(宇宙)の中へ草木も動物も人間も、共に入り込んで行く(溶け込んで行く)自由だと言います。

10tah_1 「犬はえらい」。その犬たちと幼稚園でいつも一緒に生活する幼子たちが行きたい所、行ける所では、いつも素晴らしい感動が待っています。しかし、犬を拒み、幼子たちを拒むような人々のいる所、そうした場所へは、私は行きたくない。そしてもし、天国が人間だけの世界ならば、そんなところへも私は行きたくない。犬たちのいる天国へ行きたい。

さて、私は安曇野にある幼稚園で、四頭の大型犬を飼っていた。ハスキー犬のジョン、ラブラドール犬のクロス、クロスが産んだ八頭の内の一頭のリー、そしてリーが産んだ八頭の内の一頭のマーク。マーク以外はみんな雌である。そんな私の幼稚園は、近隣の人々からいつしか「犬のいる幼稚園」と呼ばれるようなっていた。

幼稚園の敷地は広い。園舎も広く古かった。そして園舎の回りは大人の胸ほどの高さの柵が張り巡らされているので、犬たちは基本的には首輪も付けず放し飼いだった。どれも子犬の時から園舎の隅の牧師館と呼ばれる、日当たりのわるい私と家族の住居のリビングルーム兼食堂で育ち、園舎にも庭にも自由に出入りしていた。

毎日の散歩は私の車に犬たちを乗せて、豊かな自然の残る安曇野の広々とした田園や広大な河原などへ出て、そこで放した。ボスの私を中心に半径十メートルぐらいの距離をそんなに離れることなくついて来た。そんな散歩であった。今もそうです。子どもの時から可愛がり、自由にしてやれば、飼い主を置いて逃げたり、どこかへ行ってしまうなんてことを、犬は決してしないと私は信じていたし、今も信じている。

もっとも、ハスキー犬のジョンは、ハスキー犬の持つ独特の気質、他人の家を訪問するのが好きで、近所の食堂やパーマ店の自動ドアを利用して、しょっちゅう訪問を繰り返して迷惑をかけていたようです。一度は、JR大糸線豊科駅の上り線ホームにも顔を出し、松本行きの列車に乗り込もうとして駅員に止められ、私が迎えに行ったこともありました。それからは、駅前広場の芝生に寝転び、客待ちタクシーの多くの運転手やベンチに座る高校生達に様々な食べものをねだっていたようです。

ラブラドール犬の親子に、こんな事があった。梅雨も明け、幼稚園も近辺の小学校も夏休みに入って間もない暑い日だった。普段来ている園児たちのにぎやかな声や姿が園庭から消え、蝉だけが三本の大きな桜の木で鳴き、花壇の向日葵の花も何だか元気なく感じられる幼稚園の大きな樹の下で、一歳を過ぎたばかりのマークは、とてもさびしそうだった。私はそんな四頭の大型犬たちを連れて、近くの大型店へ買い物に行った時だった。

Inu1014ah_1 ラブラドール犬のマークが近くの大型店の屋上駐車場の隅に、脱糞後に肛門を押し付けた特徴あるサザエの貝殻模様のウンコを残して、もう何日も会っていない園児たちのにぎやかな声のする、市営プールへ、子どもたちに会いたくて、脱出してしまった。

私が買い物をしている間に、風通しのために、いっぱいに開けていた車の窓から脱出したのだった。そのスーパーから少し離れた北側に市民プールがあり、その方向からプールで遊ぶ子どもたちの歓声が、車の窓から吹き込んでくる北風に乗って聞こえていた。もう何日も会っていない子どもたちのにぎやかな歓声を、敏感な耳で聞いたマークは考えた…。ボス(筆者)もそこへ行ったに違いないと。そして、こうしてはいられないと、四十キロを越す真っ黒なマークは窓から落ちるように出たに違いない、たぶん。それを見た母犬のリーは、止めようとしたが遅かった。しかし、そのままにしておけない。そうした母性本能でリーはマークの後を追った。たぶん。

ハスキー犬のジョンとマークの祖母の賢いラブラドール犬のクロスは、そこまでの勇気がなかったというよりも、ボスは必ず買い物から帰ってくると、今までのボスの行動を学習してきた経験から、私を信じて待つことにした。たぶん。買い物を終えて、私が幼稚園に帰るとほぼ同時に事務室の電話が鳴った。市営プールからだった。

迎えに行くとアルバイトの兄ちゃんたちが豊科プールの受付前の階段に、私の犬二頭と一緒に仲良く腰を下ろして待っていた。二人の兄ちゃんに挟まれるようにして、二頭の私の犬たちは、気をつけの姿勢で、やや緊張した表情で、キチンとした立ち座りをして、近づく私を見つけると、前足だけで足踏みをして、私を見つめた。

それは、喜びと同時に、「おこられるかなー」との表情だった。首には白い荷造り用の紐が簡単につけられていた。体や顔が細身になり、なんだか違う犬のように見えた。そして近づく私をジーッと見つめるのだった。今でも、目を閉じると、真っ青な安曇野の青空と真夏の風の中にいたあの時の水に濡れ黒光りしていた二頭の愛犬の姿が、鮮明にまぶたの裏に甦る。

聞くと、この二頭は猛スピードで受付を通り抜け、そして流れるプール(一周七十メートル)へ飛び込み、子どもたちの周りをうれしそうに、一緒に泳いだという。(ラブラドール犬は泳ぎがとても好きなのです)子どもたちも喜ぶし、見ていてもおもしろいので、そのままにして二周ほど泳いだところで、ちょうど、全員がプールから上がるプール使用規則の十五分休息タイムとなり、子どもたちとプールから出たところで、保護して幼稚園へ電話したのだという。

私がその場で直ぐに白い紐を解くと、二頭は私の足元に尾を振って従った。解いた紐を兄ちゃんたちに手渡し、「どうも、わるかったね。ところで、プール代金はいくら、二頭分だよね」と、冗談を言うと。日焼けした顔に白い歯を見せて、気のいい兄ちゃんたちは笑い、「いやー、ぼくたちも楽しかったですよ」と言うのだった。車に戻るとジョンとクロスが吠えて迎えた。

100fah 私は反省した。夏休み前に豊科プールで水泳教室を三回していた。その時は、牧師館の中に犬たちを押し込めて留守番させていたのだ。しかたのないことだった。何処へでも犬たちを連れて行きたいが、プールへは連れて行くことは出来なかったし、それはしかたのないことだった。しかし、この出来事以来、私は幼稚園の園児たちの水泳教室は出来る限り、犬も一緒に水泳の出きる所、すなわち安曇野の自然の中にある清流の川で行なうことに決めた。

安曇野には、アルプスの山々から流れ下る清流の中房川という泳ぎに最適な川がありました。こうした自然の川は、あらゆる要素を持っていて、深いところも、浅いところも、流れの速いところも、ゆったりした所もあり、暑い夏を犬たちも幼子たちも共に清流ですごせる事に私は気づいたのです。いや、この川のことは知ってはいたのですが、車で二十分ほどの遠方でもあり、園児たちと一緒に、犬のことも考えて、水泳教室は、川でしようと、そこまでは考えていなかったのです。犬も園児たちの仲間であることを忘れていたのです。

私の行く所へは、何処へでも一緒に出かけたい犬たち。私が入浴すれば、その風呂場はもちろん、トイレで気張っている私の所へまで来てしまう犬たち。しかし、私が行くところで、幼稚園の幼子たちや犬たちが快適には過ごせない場所もいっぱいあります。しかしまた、快適に過ごせるところも、いっぱいあります。

こうした犬たちの自由を大切にすることは、幼子たちや人間の自由を大切にすることにもなります。ここで言う自由とは、日本の禅文化を海外にも広めた仏教学者、禅学者として知られる鈴木大拙(1870年-1968)先生の言う自由です。

西洋の、英語やフランス語、またドイツ語などが意味する「自由」とは全く異なる、東洋的な「自由」です。英語などでは、特にドイツ語などでは二元論の、~からの自由が強調され、束縛するもの(敵)からの自由となりますが、東洋的、日本的(仏教の)自由の深い意味は、自然(宇宙)の中へ草木も動物も人間も、共に入り込んで行く(溶け込んで行く)自由だと言います。

犬と幼子たちが安曇野の自然の中で、適切な「間」をお互いに感じ取りながら、共に輝いている姿を見る時、「うーむ、これが、禅でいうところの自由かもしれないなー、いいなー」と、そのつど、私は思わずつぶやいてしまう。犬はえらい。そして幼子たちもえらい。なぜなら、国際的に知られている鈴木大拙先生の説いた「ZEN」の自由の極致を、正に、自然の風の中で素直に、具現していると思えるからです。

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第一章3「ハスキー犬との運命的な出会い」

ジョンと血を分けた、それぞれの子犬たちが、その後にたどった運命はどのようなものだったろうか。良い飼い主にめぐり会えただろうか…。それぞれの歳月はどのようなものだったろうか…。与えられた環境の中で、それぞれに、けなげに懸命に生きたに違いない。

Inu1021ah「犬はえらい」の言葉がインターネット上の書き込みでどのくらい使われているのか、まずYAHOO!JAPAN!の検索に入力すると2007/3/12現在で約1,620,000件 と出ました。もう一つGoogle日本への検索入力では約221,000件と出ました。(2009/7/5現在のYAHOO!JAPNでは5,170,000件。Googleでは760,000件と増えています)。

そこで、数件のページを見ると、「えらい」という日本語は「「大変」を意味する「えらい」(しんどい)の意味にも使われることに気付きました。だからと言って「犬は偉い」と漢字にすると、どこか私たちが感じる「犬はえらい」のイメージと違って、人間の持つ偽善的「偉さ」を感じてしまい、「偉い(Great)」になってしまい、やや抵抗感があります。だから、身近に私たちが接する犬たちに感じる、あの純粋で、素直で飾らない、ありのままの姿の中に見出す感動としての表現は「犬はえらい」が一番ピッタリのようです。ちょっときどって、よそいきの場面では、「犬はERAII!」でもいいかな。

さて、これから紹介する私が出会い、十二年間を共に過ごした、ハスキー犬のジョンは、上記の「大変」と「偉い」の二つの「えらい」を合わせ持ったとても「ERAI」犬でした。私がその生後二ヶ月にも満たないジョンと出会ったのは、ある正月のことだった。その年の安曇野の正月は雪もなく、比較的おだやかな気候だった。その日、私の所へ新年の挨拶に来られた高齢だった教会員のS姉が帰るのを送りがてら、私は妻がクリスマス頃から話していた子犬たちを見てみようと、素足に下駄をつっかけて、駅前通りを交差点の方へS姉と向かった。

Inu1008sh_1 妻が、年末から新年にかけて、買い物から帰るたびに話題にして「まるでぬいぐるみよ。可愛いよー」繰り返し言っていた、その子犬たちを、ちょっと見てみたいと思ったのだ。子犬たちを店先に置いていると聞いた、その小さなパーマ店は、S姉に教えてもらうまでもなく、カメラ店のビルから、少し交差点寄りにあり、「あー、ここだったのかー」と、すぐに分かった。私が出かけるときは車なので、めったにこのパーマ屋前の歩道を歩くことはなかった。

そのパーマ店の前には、バラックのような柵作りの囲いが歩道に少しはみ出して置かれていた。のぞくと、何ともすごいと言うか、おもしろい顔の足の太いコロコロした子犬が、五、六頭歩き回っていた。今でこそ、ハスキー犬に関しては熟知している私だが、その時の私は、犬種名も知らず、ただ「うーむ」とうなっていた。

明るく調子の良いパーマ屋のおやじさんは、私を見るとすぐ話しかけてきた。「先生ー、どうこの犬、可愛いよー、幼稚園で飼ってやったら子どもたちよろこぶよー」と、私に一頭の子犬を抱かせようとした。私は慌てて、というより、少し焦っていた。そして、「ちょつと待ってくれ、金持って来てないから、いくらなの…」と聞いていた。おやじさんは片手をパッと広げて、「やすいよ。専門店だと倍以上だよ…」と、私に顔を近づけて小声でささやくのだった。

さらに、「これと、これと、そして、そっちのは、もうもらい手が予約してるから、残りは二頭になるかなー」と、つぶやくように言うではないか。見ると周りには買い物籠からネギや大根をのぞかせたおばさんや、子供連れの若い父親もいる。私は、コロコロした子犬たちを見た瞬間から、息がやや荒くなっていた。

普段、このパーマ店は暇な時が多いらしく、このおっさんは、店の前の街路樹の並ぶ歩道に出て、よく片手を腰に当て、駅前の広い通りの方を眺めたり、空を見上げてタバコを吸っていた。たまに車の中の私と目が合うと、明るく片手を上げて挨拶をすることもあった。気さくで明るい、気のいいおっさんだった。

私は、その子犬たちを見つめればみつめるほど、息が荒くなり、口まで開いて息をし始めていた。だから、一緒だったS姉といつ別れたのか記憶がない。気がついた時私は、ポケットに一万円札五枚を入れたパイロットジャンバーを着て、パーマ店前に来ていた。その私を妻が追いかけて来ていた。

Inu1007jh 私の飼い犬となるハスキー犬ジョンとの運命的出会いとなった正月3日のことである。私は柵の隅で鼻水をたらし、悲しげなブルーの目をしたジョンを見たとき、「これだ」との天の声を聞いたような気がした。私の性格を知っている妻はもう反対はしなかった。しかし、もう一頭の牡の方が、良いのではと妻が言うので、そいつを私が抱くと、そいつは私を見上げて、「ウーッ」と小さく唸った。結局、何だか哀れな感じのするジョン(雌)に私は決定した。

妻が、その鼻水をたらした悲しげなジョンを私の脱いだジャンパーに包んで、抱き去る時、柵の中に残された兄弟たちが突然、一斉に「キャン、キャン、キャン」と吠え始めた。その別れの挨拶の声は、私たちが足早に去ろうとすればするほど、私の下駄の音をどこまでも追いかけるように、いつまでも悲しく尾を引くのだった…。

これが、私が命名したジョンとの、運命的な出会いの日でした。今でもあの最初の出会いの時の、ジョンの悲しげな弱った姿を鮮明に思い浮かべることが出来ます。そして、二ヶ月にも満たないで母犬と離され、兄弟たちとも離され、五万円で売り飛ばされたジョンのこと、兄弟犬たちの、私の背中を追った、あの悲しげな別れの挨拶の声を、今も私は忘れることが出来ない。

ジョンと血を分けた、それぞれの子犬たちが、その後にたどった運命はどのようなものだったろうか。良い飼い主にめぐり会えただろうか…。それぞれの歳月はどのようなものだったろうか…。与えられた環境の中で、それぞれに、けなげに懸命に生きたに違いない。今、私はジョンと過ごした十二年の歳月を振り返りながら、熱いものが込み上げてくるのを禁じ得ない…。この万感の思いを、「えらい」の三文字に込めて、私は心から言わせてもらおう。「犬はえらい」。

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第一章4「六人目の我が子」

ジョンは、にぎやかな自分の犬家族と、もっともっと長く過ごしたかったに違いない。いきなり、知らない他人の家に拉致され、気安く頭をなでられたって、尻尾を振って喜ぶことなど出来ようはずもなかったのだ。今にして思えば、幼いジョンは、悲しみの中で、たった一頭で、精一杯の抵抗と抗議をしていたことに気付かされる…。

Inu1007ashh_1 ブルーの悲しい目をした、生後間もない、鼻水をたらしたハスキー犬のジョンが我が家に、六人目の子どもとして加わり、共に生活をスタートさせたのは1993年1月3日のことでした。

そのジョンと出会う三日前の1992年大晦日のことだった。その年の梅雨の季節は雨の日が何日も続いた。そんなある雨の日に次女が小学校の近くで拾ってきた猫のマックが正月を迎えることなく、突然死んでしまったのです。そして、家族みんなが、悲しみの中でNHKの紅白歌合戦は観ないで、かといってテレビを消すとますます悲しみが増すので、教育テレビのベートーヴェンの交響曲第九番を聞いたりしていた。そして迎えた正月だった。その正月の三日に、ハスキー犬のジョンとの運命的出会いが、私と家族たちに待っていたのです。でも、もし、あの時、猫のマックの死がなかったならば、私はおそらくジョンを飼うことはなかっただろうと思う。

その当時の我が家は、 高校生の長男から、一番下の二歳の次男までの、二男三女の子どものいるにぎやかな家庭でした。そして、それなりに幸せに暮らしていました。さらに、壁一枚隣りの幼稚園舎には毎日何十人もの園児たちが出入りし、日曜日には子どもたちの教会学校、そして大人の礼拝と、とてもあわただしい日々が続き、犬を飼うなどという、ゆとりもなく、考えることすらなかった、というのが実情でした。

幼稚園舎と牧師館とよばれる周りには、野良猫たちが、いつもたくさんいて、季節ごとに子猫の姿もあり、我が子たちは我が家の食堂の窓下にくる猫たちに、勝手に名前をつけて、餌や水を用意して可愛がっていました。冷たい雨や雪の降る寒い日には、家の中に入れてやることもありました。一番下の二歳の次男が、窓から顔を出して呼ぶと、すぐにどこからともなく現れる子猫もいました。また、幼稚園ではうさぎを飼っていて、子どもが生まれて、とてもにぎやかな時期でした。

それなのに次女は…、いや、そんな猫たちとの交わりがあったからこそ、小学生の次女は雨に濡れてふるえていた捨て猫を学校の近くで見かけ、とてもそのままにしておくことは出来ず拾って来てしまった。そのみんなが可愛がったマックが大晦日の夜に、みんなの前で死んだのです…。早くに病院へ連れて行ってたら、きっと死ぬことはなかっただろうと後からは思うのですが…。年末をみんなは、バタバタしていて、大切な猫の命の異変に私たちの目と心が届いていなかったのです。

そして、私たち家族は大晦日と元旦を涙と悲しみの中で過ごした。だが、このマックの死が、まさか、ハスキー犬のジョンを我が家に呼び込むきっかけになるとは…。人生とは不思議だなーと思います。悲しみと背中合わせに、幸せと感動の「えらい」があり、その幸せと背中合わせに、思いもよらない「大変」があるように思える。この時がそうでした。真っ黒だったマックのことも、私たち家族は、今も決して忘れていません。

Inu1009ahh2 そして、ジョンが我が家に登場した日、五人の子どもたちは、驚き、そして最初はとても喜んだ。しかし、頭をなでようとすると、ジョンは険しい目をして、クルッと顔を上げて、その手に強く噛みついた。敵意すら全身で表していやがった。だから、下二人の子の手には血が滲み始め、こわがりました。そして、ジョンに向かって悪口を言うと、子犬のジョンは何とも恐ろしいマーキング模様の顔でにらむ。だから、子どもたちは、「飼うなら、やっぱり猫の方がいい」と、夜になる頃には、みんなが言い出す始末だった。

そして夜が来た。しかし、ジョンは決して吠えたり、鼻声を出したりしなかったが、落ち着きがなく、たえず、家の中をあちこち嗅いで回り、オシッコをしたり、少量のウンコを繰り返して歩き回り、時々疲れて座り込むと、険しい表情と姿で、私や家族たちを批判的な、そして悲しげな目でジーッと見上げるのだった。妻が抱き上げても、ゆだんをすると、すぐに手を噛んだ。

みかん箱に毛布をひいて、寝るところを用意したが、そこからも周囲をにらみ回し、なかなか眠ろうとも、横になろうともしなかった。そして、すぐに、ダンボールのみかん箱を引っくり返して出て来て歩き回った。だから、噛みつかれると分かってはいても、そのコロコロした足の太い可愛い姿に、ついつい子どもたちは触ろうとして、後ろから、そーうっと頭の上に手を置こうとするのですが、すぐに気付かれ、本気で噛みつかれるのだった。全く可愛がりようがなかった。

妻が新聞紙を広いスペースに広げて敷いておいても、それから外れた所で、わざとのようにオシッコをした。妻は、だんだんイライラして来た。そして爆発した。ジョンはわざわざ眠りかけた妻の枕元に来て、本格的なウンコをしたのだ。それは、幼犬用のドックフードのせいなのでしょう、そのウンコの強烈な臭いは私が書斎と寝室にしていた台所横のプレハブにまで漂って来た。

それは、とっても香ばしい天ぷら油の腐った様な、もう一つの形容詞をプラスすると、ツヤのある臭いが、家中に広がったのだ。「もーう、いや!。あのパーマ屋さんにだまされたのよ!。返しに行ってよね!。明日の朝すぐに!」。そう言うと、妻はダンボール箱に入れたジョンごと、私の書斎のベットの上に投げるように置いた。

私も爆発した。「何言ってるんだ。子犬が売りに出てる、売りに出てる、見て来い、見て来いと何十回も、俺に言ったのは誰だ!。お前だろう。猫一匹もまともに飼えず、子犬一匹も飼えないのか、お前だってウンコぐらいするだろー。バカタレ!、返すなら今すぐお前が行って来い」。と、まあ大変な夜となった。

Inu1007ah_1 そんな夫婦喧嘩を、ミカン箱の中でジョンは驚いたように、そして批判的な目で見上げるのでした。私はベットに寝転んで本を読んではいたが、頭には入らず、ただジョンが静かに早く眠ってくれるのを待っていた。電気を消すとゴソゴソとミカン箱から直ぐに出てしまうのだ。そして深夜になり、ようやく私のベットの下で寝息をたてて眠ったジョン。私は急に、お腹がすいていることに気づいた。そこで、忍び足で、深夜の泥棒のように台所へ行き音をたてないように、ラーメンを作り始めた。

そして、立ち食いを始めようとして、ひょいと後ろを振り向くと、半開きのドアの向こうに、眠ったはずのジョンが、半横座りの姿勢でこちらを見て睨んでいた。私は「お前、起きてきたのかー、まいったなー」と声に出して笑った。それを聞いた妻も布団の中で笑っていた。しかし、何とも悲しげなブルーの視線に、私は手にしたラーメンを持ったまま、何だかとても胸が熱くなっていた。

あの時のジョンは、どんな思いで、台所のドアの隙間から僕の背中を、黙って見つめ続けていたのだろうか。この最初の夜の事を書くにあたって、私は、当時のプレハブより、今はちょっと上等なログハウスに格上げとなった、自宅のある伊那高原の書斎の書類の中から、ジョンの血統証明書なるものを見つけ出して来た。そして驚いた。

この「国際公認血統証明書」の内容が、どこまで正確なものなのかは、私には分からないが、驚いたのは、ジョンの生年月日だった。11月23日生まれとなっていた。そして、妻の話では12月のクリスマス頃には、店頭に出されていたジョンたちだから、大晦日や元旦は母犬や兄弟たちと一緒だったとしても、いずれにしても、私は今まで二ヶ月ちょっとぐらいと思っていたが、実際には生後一ヶ月ほどでジョンは店頭に出され、まだ二ヶ月にも満たない時に、母親から離された子犬だったのだ。

血統書によると、牡五頭、牝二頭の中の牝一頭としてジョンは生まれたことになっている。ジョンの戸籍謄本というか、家族調書と言うか、両親の生年月日や名前も記された、その証明書を見ながら、何故かふいに涙がポロリとこぼれた。ジョンは、にぎやかな自分の犬家族と、もっともっと長く過ごしたかったに違いない。いきなり、知らない他人の家に拉致され、気安く頭をなでられたって、尻尾を振って喜ぶことなど出来ようはずもなかったのだ。今にして思えば、幼いジョンは、悲しみの中で、たった一頭で、精一杯の抵抗と抗議をしていたことに気付かされる…。ごめんなジョン。

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第一章5「幼犬期ジョンのトラウマ」

私は、右腕で、死の淵から引きづり上げた直後の、幼犬だったジョンの顔について、「困ったような表情」と書いた。確かに、あの時の顔は、特にその目は「まいったなー」と言っていた。生後六ヶ月のハスキー犬ジョンが体験した危険。その時の「まいったなー」は、コンクリートで固められた水門の危険だった。自然には、命を受け入れる心が感じられる。しかし、人間の作るコンクリートの川には、それがない。

まだジョンが六ヶ月の幼犬だった五月の下旬、梅雨の走りの季節だった。うっとうしい雨が上がって久しぶりに明るい日差しが感じらる休日の午後、たいくつそうにしていたジョンを連れて妻と買い物ついでに、犀川へ行った。犀川の適当な河原に下りて、夏草が茂り始めた広場でジョンを放した。ジョンは喜んで広場を走り始めた。ハスキー犬のジョンは喜びを全身で表すやつで、分かりやすい性格だった。

その生き生きしたジョンの姿を見る私たちもうれしくなり、「うれしいんやなー、あいつ」と、笑った。ハスキー犬のジョンは、ピョコン、ピョコンと、飛び跳ねたりして、その辺りを自由に走り回った。しばらく辺りを走ると今度は周囲に鼻をつけて、あちこちを歩いて回った。やがて、私たちより先に進んでいたジョンが、突然立ち止まった。前方に向かって耳をピーンと立てた。何かの気配に耳の神経を集中させているように見えた。家の周りの野良猫などを感知した時の姿勢だった。

この犀川には広い河川敷や中洲があった。二百メートルほどの広い川幅を持っていて、梅雨の季節には毎年、前年とは全く違う流れのコースを作った。そして、その本流以外に何本もの支流が出来た。この時の事故は、この小さな支流の一つで起こった。

近くの山や高台に上って、この犀川を見下ろすと、大きな川の流れが、広い河原の中に、雄大な蛇行を描き、実に見事な、素晴らしい景観を眺望できる。私は犀川に近い西山の一つ標高九百メートルほどの光城山によく登るが、そこから見下ろす犀川や安曇野の景観はすごいの一言である。

この日ジョンと行った広い河川敷にはアカシヤなどの大きな木々がちょっとした林を形成していた。そんな木々の夏草の奥に幼犬のジョンは何かを感じとった様子だった。腰を下ろした姿勢で耳を前方に向けて立てていたジョンは、やがて頭をクルリと回して、私たちを振り返った後、前足でトントントンと、足踏みをして腰を上げた。そして、次の瞬間、猛然と前方の下流方向へ走り出していた。

その走りを見た私は直観的に、ジョンはこのまま、何処かへ走り去って永遠に消えてしまうのでは…。との不安を感じた。私は「ジョーン!」と大声で呼んだ。しかし、ジョンは、そのままのスピードで、前方の林の茂みに向かって走り、そのままの勢いで、木々の間の夏草の中へ飛び込み、そこでジョンの姿は本当にふっと消えてしまった。 「ジョーン!、ジョーン!」と何回も大声で呼んだが、前方の丈の高い草むらから反応はなかった。「こんな所へ連れて来るから…」と妻が言った。私は全力で走った。そして、ジョンの消えた私の背丈ほどの、高い夏草を手で分けて一歩足を踏み入れ、私はビックリした。目の前には草むらも地面もなかった。

目の前の足元には、河川敷をパワーシャベルで深く掘り起して工事した深い土壁の川があり、その川底をかなりの嵩の濁流が、すぐ左前方に見える小さな水門へ向かって、ゆったりした速度ながら、重そうに流れ、水門の口の大きな土管の中へ吸い込まれて流れ込んでいた。その土管の上部の空洞からは、「ゴー、ゴー」と野性動物の唸り声のような不気味な低い音が響いていた。 私はすぐに、私の立つジョンが落ちたと思われる場所から、少し流された場所で、懸命に犬かきをしているジョンを発見した。犬の本能で分かるのだろう、その不気味な低い音を響かせる水門の吸い込み口から、少しでも遠くへ逃れようと、流れに逆らって、垂直に近い土壁に身を寄せるようにして懸命に泳いでいた。 私は場合によっては飛び込まなければ、との思いで、水門の吸い込み口周辺の形状や構造物に目をやった。吸い込まれる前に手や足を引っ掛ける個所はないのか…。そして、次に目に入ったのが、水門の構造物のだいぶ後方にコンクリートの水路があり、縁スレスレに水を湛えて下流へカーブを描いて、向こうの次の木陰まで続いていた。「吸い込まれたあとは、あそこの水路に噴き出るのか…、」。

見ると、濡れた土壁にはジョンが這い登ろうとして、つけた爪跡が、水門方向へ、何箇所も筋を引いていた。「待ってろ、そのまま泳げ、大丈夫だ!」、私はジョンをのぞき込んで、話しかけるように声をかけた。ジョンが小さく「クーッ」と鼻を鳴らした。

ジョンの泳ぐ水面までは、何とか手をいっぱいに伸ばせば届きそうな高さだった。しかし、赤土の壁面が崩れれば、私も落ちる。私はジョンの真上まで近づき、注意深く腹ばいになった。そして、ジョンに向かって右手をいっぱいに伸ばした。左手は、木の枝を掴んでいたのか、近くに密集する太い茎を持つ雑草を掴んでいたのかは、よく覚えていない。

しかし、私の右手四本の指がジョンの首輪に入ったのと、「よーし!」とジョンに声をかけたのは覚えている。私は右腕一本でジョンを、二回の反動をつけ、グイーっと引きずり上げていた。六ヶ月の幼犬だったが、水に濡れけっこう重かった。そして、ジョンの首輪を握ったまま、両膝を立てて、後ずさりして草むらに引きずり上げていた。私は首輪を握った指をゆるめず、ジョンの困ったような顔を間近に見つめた。そして、ようやく緊張が解けて、私は大きく息をしてから、草むらの中で大声で笑っていた。 その私の笑い声で、妻は初めて、「あー!、私…もうだめかと思った」と大きなめ息をついて、私の背後に近づいて来た。

しかし、何という危ない工事だろうか。安全のための河川工事といいながら、近づくものに落とし穴を作るに等しい、危険な工事だと思った。手綱を、ジョンの首輪に付けると、私たちは足早に、その河川敷を後にした。そして二度と再び、その河川敷へ近づくことはなかった。

芥川賞作家の三田村誠広氏は、その著書「犬との別れ」で、私のジョンと同じ生後二ヶ月のハスキー犬をで飼いはじめた、その「リュウノスケ」との十四年間を書いている。そのリュウノスケは、泳ぎが好きで、猪鼻湖でかなり沖まで泳いで行き、途中でターンして戻ってくる場面を、「わたしはいまでも、点のようにように小さくなった犬の後頭部の映像をありありと思い浮かべることができる。顔がこちらに向きなおり、犬が引き返してくれることを祈るような思いで待ち受けていた。犬は戻ってきてくれた。」と記している。

この湖を私は知らないが、浅瀬の砂浜から沖へ続く自然のやさしさを持った湖であることを三田氏は記している。この個所を読んだとき、私は「やっぱりそうだったか」と思った。私のジョンは幼犬期の、水門近くで、落水した危険な体験が、トラウマとなって、強く残り、その結果、生涯を、他のラブラドール犬たちと一緒に、川でもダム湖でも、海でも、楽しく泳ぐことが出来なかったのだ。

ハスキー犬だって泳ぎが好きなのだ。泳げるのだ。 私は、右腕で、死の淵から引きづり上げた直後の、幼犬だったジョンの顔について、「困ったような表情」と書いた。確かに、あの時の顔は、特にその目は「まいったなー」と言っていた。生後六ヶ月のハスキー犬ジョンが体験した危険。その時の「まいったなー」は、コンクリートで固められた水門の危険だった。自然には、命を受け入れる心が感じられる。しかし、人間の作るコンクリートの川には、それがない。

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第一章6「ラブラドール犬クロスとの出会い」

我が家に来ても、このラブラドールのクロスは、ジョンの時のように私たち家族を悩ませたり困らせることは一度もなかった。犬というのはこんなにも賢い動物なのかと、感心させられ、犬に対する、今までの私たち家族の考えを一変させるものだった。

Inu1017sh いつしか夏は去り、安曇野の空が高くなり、いばり犬のジョンにかじられた哀れな姿の向日葵の横にコスモスの花が揺れる秋となっていた。秋の西日が私の座る南側の窓から事務室の机の上を照す昼下がりだった。電話が鳴った。

「もう残っているのは、二頭だけです。そろそろ、来ませんか。今日は私も家にいますから…」の電話がOさんから入った。早くして欲しいとの気持ちが声に現れていた。その日は日曜日だった。家には野球部の朝練を終えて帰って来ていた高一の長男と私だけがいた。他の家族は三女の運動会に出かけていた。

その電話の声には、もうこれだけ母犬と一緒に過ごしたから大丈夫ですよ。だから早くして欲しいとの気持ちが感じられた。私が、この時の飼い主の複雑な気持ちを理解できるのは、自分が子犬を渡す側になった時のこととなる。小穴さんはまるい体型の大柄な人で、やさしい口調で話す心根もやさしい人だった。私の幼稚園に男の子を入れている父親だった。

そのOさんが、めずらしく、今日こそ来てくださいとの強い意志を、そのソフトな語り口の奥に持った雰囲気で言った。生れたから、何時でも見に来て、一番よいのを予約してくれれば…と、何回も私は声をかけられていたが、一度も見に行っていなかった。ジョンを飼うようになってから、私は犬関係の本を書店で読んだり、犬好きの幼稚園の保護者との立ち話で聞いたりして、子犬は出きるだけ母犬や、兄弟犬と一緒に長く置いてもらった方が、落ち着いたよい犬に育つこと。その期間は三ヶ月ぐらいが目安となることなどを、知識として持っていた。それは、二ヶ月にも満たないで我が家に来たジョンにぴったりの耳の痛い情報でもあった。

だから私は、八頭のうちのどの犬にするかは小穴さんにまかせた。ただ雌の方がよいことだけを伝えて、いっさいをお任せしていたのだ。私と長男が到着すると、大人がまたいで入れる高さの柵で囲まれたガラーンとした広場の中に、ひっそりと二頭の子犬だけがいた。こちらの開き戸を開けると、一頭は何かをさがすように、奥の方へヨチヨチ歩き、もう一頭は私と長男を見上げ、トコトコと近づいて来て長男の運動靴を嗅いだ。

それを長男が抱き上げた。Oさんは、「あちらの方が…」と、奥に進んで小さな腰を下ろしてオシッコをしている子犬を指差したが、私は長男が抱き上げた子犬を見て、直感的に「こっちでいいよな」と、長男に言っていた。長男は両手で、その黒光りした子犬を高い高いをして、顔をのぞき込み、「ああ、いいよ」と言った。

Oさんは、長年の知識や観察眼で、本当はもう一頭の方を私のために選んで、今まで残しておいてくれた子犬だったかもしれないと、その時は全然思わなかったが、家に帰ってから、妻と話した時に、そう言われ、私もそうかもな…。と思ったが、私の決定は犬に限らず、全ての面で、その場の展開と直感勝負での決断が多く、まよいはないし、後悔もいっさいしない性格なのだ。

でも、それから顔を合わせるたびにOさん夫妻は、「実はあのクロス、は八頭の中で一番賢くて、いつも一頭たりないな、と思って探すと、必ずあの子はティンクル(母犬の名前)の居場所をつきとめて、いつも乳をのんでいました」。と言うのだった。

我が家に来ても、このラブラドール犬のクロスは、ジョンの時のように私たち家族を悩ませたり困らせることは一度もなかった。犬というのはこんなにも賢い動物なのかと、感心させられ、犬一般に対する、今までの私たち家族の考えを一変させるものだった。

Inu1007sh 一番喜んだのは、運動会から帰って来た小学校一年の三女だった。ジョンと遊んで、あらゆるズボンを使い物にならないほどに破かれ、両足の後ろは噛まれて、傷だらけで、小学校の年配の女性教師から、「ひどい犬ですね」と再三、連絡帳に書かれ、妻は困っていた。そして、四月の家庭訪問の時も、「犬の飼い方に問題があるのでは」、と言われたりで妻は恐縮していた。

しかし、小学一年の三女や三歳少し前の次男は、時々は強く噛まれて泣くこともあったが、そのたびに「もう、あいつとはあそぶな!」と怒って言う私の言葉をいつも忘れて、また、傷だらけになりながらも、ジョンが大好きで遊んでいた。走ったりしない限り、そんなに噛まれたり、ズボンを破かれたりしないのだが、適当な間隔をおいて、サーッと、スベリ台などの幼稚園の遊具の上に逃げて行くスリルを、一種の鬼ごっこのようにして二人は楽しんでいたふしがあった。

もちろん、幼稚園児も同じような被害にあっていた。クレヨンを食べられたり、そのクレヨンや粘土などが混じったウンコを、そーっと図書室にしのび込み、白雪姫の絵本の上にしていて見つかり、私に通報されたこともある。さらに、縄跳びのなわを噛み切られたり、履物をかじられたり、買っもらったばかりのスキー用の高級手袋を片方ボロボロにされたりと、いろいろ書いたら切りがない。しかし、そんないばり犬なのに、どこか憎めず、みんなから可愛がられもした。でも、今振り返ると、幼稚園の中で、いばり犬を飼えたのは、犬好きで、愛情があり、体力的パワーもある現場のベテラン主任教諭のF 先生が、まず、そんなジョンを受け入れてくれたからだと思う。

そんな状態の所へ、幼稚園には、乱暴な、いばり犬のジョンだけでなく、こんなにやさしくて賢い、ラブラドール犬のクロスがいるんだよと言える日が来たのだ。血統書もジョンのとは比べ物にならないものだった。日本警察犬協会の物で、それによると、このクロスの祖父犬は、イギリスでチャンピオン犬に選ばれていた。そんな賢いクロスに家族も幼稚園児もとても喜んだ。ところが、ジョンが、このクロスのことで、とんでもない行動に出て、みんなを驚かせることとなる。そして、クロスも、そのいばり犬のジョンに、じょうずにまもられることになるのです。

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第一章7「クロスの幼稚園デビュー」

ちがいをみとめあい    いっしょにいきる ルルー   それがいきること  光の子どもたち…」。これは、幼稚園で生れた歌「いっしょに生きる」の一節である。幼稚園での日々、ジャイヤンのような子も、ノビタのような子も、いばり犬のジョンも、賢いクロスも、みんなみんな、一つの命を生きていた。そして、ドラエモンとまではいかないまでも、園児たちや犬たちのトラブルを、園児の誰かや、どの犬をも排除したり、その自由も奪うことなく、解決してしまう不思議な「四次元ポケット」の心を、F 教諭は持っていた。



Inu1017athhクロスが幼稚園デビューした日のことを、詳しくは思い出せない。思い浮かぶのは、事務室での朝の職員会を終えて、壁一つ隣りの牧師館への出入り口のドアを開け、私か妻が我が家の居間のソファーの上にいたクロスの名を呼んで、連れ出した。

F先生に見せると、犬の大好きな先生は、「まー、かわいい!、ついに来たんですね。抱かせて、抱かせて」と言って、クロスを両腕に抱きあげて、「名前はやっぱりクロスにしたんですねー」と言って、自分の腕の中に向かって、「クロスちゃん」と呼びかけた。そして、私の承諾を得ると、今開いた牧師館へのドアとは反対側にある引き戸を開けて、幼稚園のホールへクロスを抱いたまま連れて行った。

そして、すでに登園していた何人もの園児たちに声をかけた。「みんな、おはよー!。ほーら、ぼくし先生が言ってたでしょう。こんどは、いばり犬のジョンとは違う可愛い犬が来るぞーって」。「しってる、しってるー。ゆういちくんちのティンクルの子でしょう」。「そうそう、あのティンクルの子なの、可愛いわよー、だいてみる」。「うん、だかせて、だかせてー」。「はーい、落とさないようにね」。

「わー、かわいいー、せんせえ、この犬かまないね」と、いう園児に、「ジョンだって、本気でかんだりしてるんじゃないのよ。あなたたちだって、ふざけて叩いたり、押したりして遊ぶでしょうー。それと同じよー」と、F先生はジョンをかばって言った。「犬にはね、みんなのように、何かをつかんだり握ったりできる手がないの。それで、何かをつかもうとする時は口を使うのよ」と教えたりもしていた。

「せんせえ、名前なんていうの」。「クロスなんだって、どういう意味か知ってる?」。「しってる、しってる。じゅうじかー」と、みんなは、左右の人差し指をクロスさせて見せる。「わーすごい。よくおぼえてたね」。「ひとりでだかないで、今度はわたしに抱かせてー」。ホールの中央近くのクロスとF先生を中心にした園児たちの輪は、次ぎつきと登園してくる子どもたちによって、どんどん膨らんだ。そして、一通り、集った子どもたちがクロスを抱っこしたり、触ったりし終えると、F 先生は「さー、下におろしてあげて。抱っこばかりしてるから、ほらクロスちゃん歩いて遊びたいんだって」。

そして、クロスは下におろされ、周りを見回した。すでに、昨夜とこの朝早くに、広い園舎のあちこちを私と歩き回り、下見をさせていたので、クロスは園舎の中や、外の様子をすでに理解していたと思う。しかし、次々と登園してくる子どもたちの多さには、ちょっと驚いた様子で事務室の方へ戻ろうとした。

105_0513axh_1その時だった、玄関の方から、「わー!、ジョンだ」と、今登園して来たらしい元気な男の子の声がして、だいぶ立派に成長した尻尾をゆらゆらさせた恐いマーキングの顔のジョンが、「なんだ、なんだ」と言った感じの顔で現れみんなのいるホールをのぞいた。そしてジョンは、両前足を一段高いホールの床においたままの姿勢で立ち止まり、もう一度のぞき込むように、集っている子どもたちに眼をくばった。そして、みんなの足元にいるクロスに気付くと、不良少年のようにみんなに睨み目をきかせて、ゆっくりとクロスの方へ近寄った。子どもたちの膨らんでいた輪はジョンに道を開ける形でドドーッと崩れた。みんなは、ジョンが登場すると、素早く二、三歩身を引き、両手を頭の上にピタリとつけて、「おじぞうさん姿勢」をとった。

ジョンに手を噛まれたりしないために、この「お地蔵さん」のポーズを子どもたちに教えたのは私である。幼稚園のクリスマス会では、毎年、降誕劇の他に、日本の民話から「傘地蔵」をやっていた。そんなこともあって、ジョンを見て、すぐに逃げ出そうとする子に向かって、「うごくなー、お地蔵さんになれ。手は頭の上。絶対動くな!」と、私は大声を出して教えていた。

「犬とおまえとどっちが走りが早いと思う?。犬の方がぜったい早いだろう。それが分かってたら、絶対走って逃げるな。動くな!。こうやってお地蔵さんになれ。わかったな!、返事は!」と私は一人ひとりに、また機会あるごとに、みんなに根気よく教えた。「返事はー!」と、私はいつも念を押した。「はーい」と大きな声で答えるまで、ジョンのような顔をして、いつも念を押した。

いばり犬のハスキー犬のジョンの幼稚園デビューの頃は、可愛がろうとして頭の上に手を置こうとする子どもたちの手を、片っ端から噛んだ。ジョンにしてみたら、攻撃をしかけてくる相手、ちょうど子犬同士の噛み合いのふざけっこをするような感覚だったに違いない。しかし、噛まれると当然ながら、やはり痛いし、血の滲むこともあった。だから、手は頭の上にピタリとつけて、動かない姿勢をとらせ、その姿勢を「お地蔵さん」と呼んでいたのだ。

新しく入園して来る子の、「入園説明会」でも、必ずこれを親子に教え、犬についての説明を繰り返した。こうした「お地蔵さん」姿勢がいばり犬ジョンに対して100パーセントの効果があったかと言うと、そうでもなかった。上にあげている腕を噛んだり、ひじの辺の衣類を引っ張って破いたり、どうしても怖くなり、走り出す子を追いかけて、お尻や足のかかとの辺りを噛んだりと、いろいろあったが、私に大声で怒られるのはいつも、子どもたちの方だった。

「走るなと言ってるだろー!」。「動くなといってるだろうー!」。「お地蔵さんになれ!」。「手をもっと上にあげて、肘も上にあげるんだ!、頭に手のひらをピタッとつけろ!」。「チンコやお尻をつつかれても、絶対動くな!」。「今までかみ殺されたやつは、たったの二人だけだ。安心しろ!」と、指導するうちに、だんだん、子どもたちは、ジョンとのつき合い方がうまくなり、友だち同士で教えあうまでになって、ゲーム感覚で適当にジョンと遊べる子もあらわれた。

Inu1018bhh_1 そのジョンがいつものように子どもたちに囲まれているクロスを見て、ある朝、意外な行動に出た。クロスの幼稚園デビューから、幾らもたっていない日だった。その時、私は外水道の近くで何かをしていた。その日も子どもたちが、玄関近くの広場で、クロスを抱いたり、触ったりしていた。その輪の中に、突然ジョンが割って入り、園児たちを追い払うと、何とクロスの頭をくわえて、引きずるように、桜の木の下へ連れて行ってしまったのだ。

クロスは賢かった。その事があってからは、同じような場面で、ジョンが近づいてくると、頭をくわえられ、運ばれる寸前に、自分でトコトコ走って、いつもジョンが陣取っている桜の木の下や、外の取り付け遊具の端の処などへ移動して座るようになった。そうすることで、あのジョンの口に頭ごとくわえられ、臭いよだれをつけられ、引きずられなくて済むことを、二、三回の体験で、学習してしまったのだ。さらに、クロスは賢かった。子どもたちに、いじくり回され、疲れてくると、自分からジョンを探し、そこへ避難するようにもなった。

ジョンを中心とした半径三メートルほどへは、園児たちが近づけないことも、クロスは一ケ月もしないうちに学習していた。そんなクロスをジョンも可愛がり受け入れ、孤独ないばり犬のジョンは賢いクロスという、生涯の友を得たのだった。クロスもまた同じだった。私や教諭のF先生、そして、幼稚園教諭でもあった妻、さらに、幼稚園の犬好きな男の子や女の子たちに見守られ、クロスは、そしてジョンも、さらに成長して行くことになる。

さて、ラブラドール犬を飼うのは、クロスが初めての私だった。こうしたラブラドール犬たちが、盲導犬や介護犬として、また聴覚の不自由な人々をサポートしたり、水難救助犬としても、その優れた心と能力で人間たちを助け、お手伝いして活躍していることは知っていた。しかし、私は、このクロスと出会ったことで、また一つ犬の持つすばらしさに気付き感動したのだった。

ジョンのようないばり犬であっても、クロスのような賢い犬でも、園児たちと同じで、それぞれがみんな違う個性と心を持つ存在であり、かけがいのない、違う命を一つづつ持っている。だから、こっちの命とこっちの命は、全く違うんだ。一つの命が消える時、もうそれに替る同じ命はない。だから、一つ一つの命を、みんながお互いに大切にして行かなければならないことを、私は改めて、ジョンとクロスから学んだのだった。

Inu1017ah_1 ちがいをみとめあい    いっしょにいきる ルルー   それがいきること  光りの子どもたち…」。これは、幼稚園で生れた歌「いっしょに生きる」の一節である。

幼稚園での日々、ジャイヤンのような子も、ノビタのような子も、いばり犬のジョンも、賢いクロスも、みんなみんな一つの命を生きている。そして、ドラエモンとまではいかないまでも、園児たちや犬たちのトラブルを、園児の誰かや、どの犬をも排除したり、その自由も奪うことなく、解決してしまう不思議な「四次元ポケット」の心を、F 教諭は持っていた。

そのF教諭が私に言ったことがある。確か、クロスが園に来てまもない頃だったと思う。「ぼくし先生は、犬種のハッキリした犬が好きなんですね。でも、雑種の犬もいいですよー。とっても心があって、驚くほど賢い犬もいるんですよー」。「悲しみを体験した犬は、可愛がってあげると、とても敏感で、悲しいくらいに、こちらの心がわかって、賢いんですよ…」との彼女の言葉は、今も忘れない。

賢いラブラドール犬クロスとの出会いは、このF教諭の言葉との出会いでもあったのだ。「賢い」という言葉を使ったり、本などで目にするたびに、私は今も、この時のことを思い出す。

このF先生は、初冬に、中房川近くの林の中に捨てられ、寒さと空腹で目の瞳孔が白くなり、失明と死の一歩手前にあった、見るからに雑種とわかる腹の異常に膨らんだ不恰好な子犬を、引き取った。彼女が今までに飼ってきた犬は、横浜で幼稚園教諭をしていた頃も、安曇野に来てからも、彼女が飼ったほとんどの犬が、そのような悲運の中で助けを求めていた犬たちだった。

Inu1016bbhもし、この私が本当の愛犬家なら、何故あの秋の野外修養会の時、犬を十分に飼える立場にあったのに、あの寒さに震え失明寸前だった犬を、「誰か飼う人いませんか」と、発見者に言われたのに、引き取らなかったのだろうか。なのに、ここに来て急に、流行のハスキー犬、そして、祖父にイギリスのチャンピオン犬を持つという、優秀なラブラドール犬を飼うのだろうか、との私への疑問だったのではなかったか、と思う。

やがて、このクロスが成犬になり、初めてのお産をした時の八頭の内の一頭が、F先生の家にもらわれていくことになります。そして、息子さんによって「アージュ」と命名されます。今私が飼っているリーの姉妹犬です。

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第一章8「ジョンとクロスの夜の寝場所」

クロスはその夜、自分に与えられたソファー近くにある畳のコーナーでは妻が眠り、子供たちは、風呂場前にあった二階への階段を上り、ボスの私とジョンはプレハブの部屋で眠るのを確認すると、そのソファーの上で猫のように丸くなって、すぐに眠りについた。以来クロスは、生涯この緑色のソファーを自分の居場所として過ごすことになった。

Inu1020ahジョンに続いて、 我が家にやって来た二頭めのクロスが、最初の夜をどのように過ごしていたか。そのクロスのことを書く前に、クロスより少し先輩のジョンは、クロスが来た当時、どこでとんな夜を過ごしていたかを思い起こそうとした。しかし、不思議なことに、私には明確な記憶がない。私が十数年後に、このような文章を書くと決めていたならばきっとメモをとったり写真の一枚も撮っていたに違いないのだが、そのようなメモもないし、確かな写真もないのだ。そこで、すこしずつ、記憶の糸をたぐりよせて、何とか、思い出すことにしよう。

クロスと我が家族との出会いは、三女の小学校の運動会の日だったから、九月の中旬ということになる。すると、その時ジョンは生後約十ヶ月で、我が家での生活は九ヶ月少し前ということになる。

その頃のジョンが、昼はともかく、家族が眠る夜に、いったい何処にいて、どんなふうに夜を過ごしていたのか、眠っていたのかの記憶がないのと、クロスが我が家に来て、初めての夜を、どんなふうに迎え、そして眠ったか、両方の記憶がないのは不思議である。

クロスは先輩のジョンの近くで、ジョンに母親のようにまもられて、眠ったのだろうか。いや、それだったら、「さすが、ジョンはえらい」ぐらいを誰かが言って、少しぐら私や妻の記憶に残っているはずではないか。しかし、これも全く記憶がないというか……、そうか、ジョンには決まった場所がなかった。大きな犬小屋を幼稚園の事務所前に設置したのは、だいぶ後のことだし、いったいどうしていたんだろう。妻に聞いてみたが、「さー?」と、私と同様に、覚えがなかったのも当然である。

その結論は、ジョンの場合、「あいつは、毎晩自分で適当なところを選んで勝手に眠って、朝は朝で早くから、みんなを起こして迷惑ばかりかけていた」との記憶に、ようやくたどり着くことが出来ました。

Inu1021xah ハスキーのいばり犬ジョンは、最初に寝場所として与えた、どこでも移動可能な、タンボールのみかん箱が小さくなると、広いリビングの壁際に勉強机の古いのを置いて、その下に毛布を敷いて居場所を作ってあげたが、そこでも落ち着かず。あっちでガサガサ、こっちでゴソゴソと、家中のみんながノイローゼーになる夜が続いていたのだ。

何とか落ち着き場所を自分で決めて、今度こそだいじょうぶ。それで、やれやれと、私たち家族みんなが寝静まると、今度は居間から、空気の新鮮な外に出たいとドアのところで、「クークー」と鼻を鳴らしたり、ドアを爪で引っかいたりして家族を起こし、外に出すも、オシッコやウンコをする様子はなし。そのまま外に出しておくと、夜の街へ無断外出をしてしまう。と、まあ、どうしようもないやつだった。

そこで、家の中や、隣りの幼稚園舎、さらに軒下のどこか、気に入ったところを選ばせて、場所によってだが、外の場合に限り、そこへ紐で繋いだ。すると、しばらくはよいが、私が眠りにつく頃になると、「クーッ、クーッ」と鼻からぬける奇妙な音を発し、それは園舎や桜の木の下の離れた場所からであっても、その蒸気のもれるような奇妙な音は、私には聞こえた。そして、最初はごく小さく、次第に音程とボリュームを微妙にゆっくり上げていき、最後にあのハスキーの名前のごとく、気が狂いそうな、ハスキー声での、狼の遠吠えが、暗闇の中に突如爆発して響き渡るのだから、たまったものではなかった。

そして、私に何回も、幼稚園の遊具置き場にあった園児の使うプラスチックバットや桜の枯れ枝で殴られ、落ち着くまでの何ヶ月かの期間で、幼児用バットを三本以上もだめにした記憶が甦った。ここまで記憶が戻ると、もう完全に思い出していた。あいつは、外の新鮮な空気が好きで、家族とは少し距離をおいたところで、気楽にポツンといるのが好きだった。しかも野良猫などの気配がしたら、すぐに対応できるような場所で、さらに、自分にとって落ち着ける狭い身の隠し場所もかねそなえた場所を要求した。まったくもって、超どうしようもないやつであったことを思い出した。ちなみに、ジョンはれっきとしたメス犬であるのに、私にいつも「あの野郎 !」と言わせた。

やがて、ジョンにピッタリな居場所が何箇所かみつかった。代表の三箇所を紹介すると、まず第一はリビング兼食堂の東外窓の下。二番目が幼稚園児の下駄箱の前、この場合玄関の両開き戸のどちらかを少し開け、野良猫などがオシッコやウンチをしに来る砂場を見えるようにしておくことが条件になった。第三は、第一の場所にもすぐ行ける、ボス(私)のプレハブのベット横の床。ここだと、すぐにボスに殴られたりするが、一応落ち着くことが多かった。それには理由があった。

私のベットのあるプレハブのサッシ戸を開けると、そこが第一に紹介したリビング兼食堂の東外窓の下へ通じ、一人住まいのおばあさんの隣家の隙間だらけの高い塀と、そして母屋の食堂の壁、もう一つ風呂場の壁、そして私のプレハブの窓と、四方を囲まれた狭いスペースとなっていたからだ。しかし、ここへ行くには、私の書斎兼ベットルームのプレハブの部屋だけが唯一の経路となっていて、私にはとても迷惑な話だった。そして、ジョンが登場するまでは、この狭い四角スペースが野良猫たちと我が子たちの交わりの場所となっていました。猫は身軽だから、食堂窓の縁にジャンプ出来た。窓の直ぐ下には、風呂のオイルボイラーとタンク。それにクーラーを雨からまもる小さなトタン屋根が取り付けてあった。そのトタンの上に野良猫用の餌鉢や水のみの容器を子供たちが置いていた。

しかし、ジョンの登場で、野良猫たちには気の毒だったが、そのスペースから猫たちは追い出されてしまった。野良猫への餌やりは南側窓下に移された。そして、ジョンの気ままな移動で、西窓下、南窓下と、その都度野良猫たちの餌場は移動した。西窓下のスペースにジョンが落ち着いた頃に、ちょうどクロスがやって来たのだ。

さて、ここでようやくクロスの最初の夜の話に戻れた。まったく、ジョンにはまいるなー。その居間の緑色のソファーがクロスの居場所となった。クロスはその夜、自分に与えられたソファー近くにある畳のコーナーでは妻が眠り、子供たちは、風呂場前にあった二階への階段を上り、ボスの私とジョンはプレハブの部屋で眠るのを確認すると、そのソファーの上で猫のように丸くなって、すぐに眠りについた。以来クロスは、生涯この緑色のソファーを自分の居場所として過ごすことになった。

我が子たちの成長と共に、家の模様替えや、家具の移動で多少の移動はあったが、この緑色のソファーがクロスの居場所であり続けた。私が伊那高原に自宅を持った時は、犬たち専用の部屋を作り、私はカーテンで仕切った隣り部屋にベットを置いた。そして、クロスには同じようなソファーを用意したのだった。 あのいばり犬ジョンのおかげで、思わぬ方向へ、ついつい話がそれてしまい、予定していた幼稚園でのクロスとジョンの関係は次となってしまった。

Inu1020aahあの本当に小さかった子犬のクロスは、先輩のジョンの心も、そして私たち家族七人の、一人ひとりの性格さえも理解し、さらに幼稚園児たちとの接し方にも、気をくばりながら、成長するのです。本来は、あんな野性味の強いジョンと一緒にさせるべきではなく…。さらに、クロスにとっては、私のような、飼い主もふさわしくなかったのでは、との思いもあります。

本当は立派な門構えの豪邸なのどが、クロスには相応しかったかもしれない。ゴルフ場のように、きれいに刈られた広い芝生の庭があり、高い木々の梢で鳴く小鳥たちのさえずりで目を覚ますと、上品な落ち着いた飼い主の婦人が笑顔で現れて、「おはよう、クロスちゃん、今朝はフランスパンとミルクでいいかしら…」なんて、声をかける。すると、リビングルームのゴージャスな暖炉横の柔らかい犬用ベットから、ゆっくりと身を起こすクロス。その少し横には、少し年下のコリー犬が、まだ静かに眠っている…。

そんな環境と飼い主がピッタリだったかもしれないなー、と想像したりする。いつだったか、夏休みに泉郷の貸し別荘に招待されて家族で一泊した時、暖炉の前で、クロスが大好きだった長女と三女と撮った写真がある。「クロちゃんには、こんな暖炉のある部屋がよく似合うね」と、妻や娘たちが言っていたのを思い出す。

その時ジョンはどうしていたかと言うと、勝手にあちこちの貸しペンションに上がりこみ、居合わせた女子学生たちに、「キャー、」という悲鳴をあげさせていた。私が怒って連れ帰ると、一番奥の方の、狭い物置を、その夜の寝場所にえらんだのだった。そして、「やっぱり、ジョンさんは、狼なんだねー、敵に襲われにくい所を撰ぶんだねー」と、子どもたちに笑われていた。ハスキー犬は知らない人の家を訪問するのが好きな犬種であることを、外国の愛犬家の女性が書いた本で、私が知るのはだいぶ後のことである。

もし、犬に飼い主を選ぶことが許されるなら、また一緒に過ごす犬仲間を選ぶことが出来たなら、クロスは、私を選んだだろうか…。ジョンを選んだだろうか。しかし、出会ったどんな飼い主をも受け入れ、与えられた環境の中で、けなげに精一杯生きようとする、犬たちの姿に、私はやはり、「犬はえらい」と、言わせてほしい。

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第一章9「クロスの出産」

狭くて暗い粗末な物置部屋の隅でありながら、そこには、ゆったりとした、何かこの世で一番大切な時間が、静かに輝いて、やさしく流れているように感じられた。間隔を置いて、一つ一つの命が順番に、半透明の薄い真珠色のカプセルの中に、大切に包まれての誕生だった。その一つ一つの命のカプセルに、クロスは鼻を近づけ、口と舌でそのカプセルの包みを破った。そして、この世への誕生を、ペチャペチャと乱暴なくらいになめまわして迎えているのだった。

Inu1061cchクロスは四歳のまだ寒い冬の終わり、二月の冷え込む夜に、初めてのお産をした。これは、私が犬のお産を見る、初めてのことであった。クロスは、牧師館のリビングルームから事務室へ入るドアのすぐ横にある狭い部屋で、当時は物置として新聞紙や本などの不用品を積んでいた小部屋の一番奥のところで八頭の元気な子犬を産んだ。

お腹の大きかったクロスに、お産の始まりそうな動きが見られ、「近いなー」と、家族みんなが感じた日の夜半からお産が始まり、最後の八頭めが産まれて、お産が終了したのは明け方近くであった。私は夜中に何回も起きて、居間の畳のコーナーで、五人の我が子たちの育児、そして幼稚園教諭としての職務に疲れて、夜の眠りに入っている妻のことを考え、電灯をつけずに、懐中電灯を持って見に行った。そうっとのぞく私の目の前で、クロスは一頭ずつ、半透明の、ちょうど風船ガムを膨らませた時のような薄い幕のカプセルに入った子犬を、時間差を持って、次々と産んだ。

私が照らす懐中電灯の小さな光の中に、命を包んだ小さなカプセルは、真珠のような光を放っていて、その神秘さは私の心を震わせた。クロスはそれらのカプセルを口と舌で破り食べているように見えた。「犬のお産は軽い」と言われているが、確かに、ゆったりとしたお産だった。この時、京都の祖母が、「犬」の文字の小さな印が縫い込まれた腹帯を、わざわざ京都から娘である妻に贈って来た時のことを思い出していた。

私はついつい「おい!、産み始めたぞ」と、小声で眠っていた妻に声をかけていた。私は、自分の感動を誰かに知らせたかったのだ。そのとき確か、三女と、もう一人の子も起こして見せた記憶がある。学校や幼稚園を一日ぐらい休んだって、目の前の誕生の神秘を五人の我が子たち全員に私は見せてやりたかった。私は、妻がまた眠りについた後も、時々起き出し、パジャマの上から寒さしのぎに、毛布を体に巻き、懐中電灯を持って、時々のぞきに行ったが、いつしか私も眠っていた。

翌朝、「おとうさん知ってる、八匹も生まれてるわよー。かわいいわよー」の、妻の大きな声で起こされた。プレハブの窓に明るい陽射しがあった。しかし、冷蔵庫の中のような朝の冷え込みだった。そして、妻に背中を押されるようにして、狭い部屋へ入った。薄明かりの中で、小さな頭をそろえてクロスの乳首に群がっていた。黒が六頭、白が二頭で、八頭の元気な子犬たちだった。クロスは、とても満ち足りた表情と姿で、横たわり、授乳させていた。その雰囲気は、何だか、クロスが私より一気に年上になってしまったような、とても母性的なものだった。

その部屋は北側に小さな窓が一つあるだけで、入り口は一つでドアはなく、厚手のカーテンで仕切っていたので、クロスは自由に出入り出来た。しかし、昨夜から一回もクロスはそこを出ることなく、朝を迎えていた。私は、数日前から、お産の場所にと、いつもクロスだけが寝ているソファーを動かして、そのソファーと壁との間にスペースを作ったり、階段下の物置にもスペースを用意したが、最後にクロスが選んだのは、幼稚園舎とも事務所とも壁一つ隔てた、決して静かとは言えない、この狭い物置小部屋だった。子どもたちの週刊マンガ雑誌や古新聞が高く積み上げてある奥の空間だった。

我が子たちは、代わる代わる見に行った。入り口も狭く、中も狭いのに、一人が行くと、すぐに、みんなが見たがり、五人の我が子たちは重なるようにして入り、「わー!かわいい」、「おー!クロスやったじゃん」などと、声をかけていた。妻は、我が子五人に加え、クロスに八頭もの子犬が生れ、さらに、朝から庭で遠吠えを響かせているジョンもいる現実を前に、「いったい、この家はどうなるの…」と言いつつも、お産で汚れた布や新聞紙を新しくして、世話をしていた。

幼稚園の子どもたちにも、順番に見せてやることが出来た。事務室に入り、牧師館への入り口のドアを開けて、すぐ左の部屋だったから、すぐに見せてやることが出来た。もっとも、全ての園児たちに見せてやったのは、子犬たちの目が見えるようになってからで、それまでは、私が幼稚園のホールに、一、二頭を抱いていって見せていた。しかし、犬の大好きなF先生には、もちろん、産まれたその朝一番に見てもらった。

このクロスの母犬ティンクルの飼い主、Oさんは子犬たちがヨチヨチと歩き始めた頃に、見せてほしいとやって来た。見せると、「せんせー、これ、クロスの相手も、ラブラドールですよ。間違いなく、八頭ともラブラドール犬ですよ、雑種には見えない」と言った。

その当時、私は五人の我が子たちの成長と共に、七人の家族が暮らすには、牧師館は狭くて、限界だと感じていた。家庭訪問で学校の先生たちに入ってもらう応接間もなく、いつも事務室で対応し、我が子たちが、友だち仲間で、誕生会の呼び合いをしても、我が家として使用していた牧師館には来てもらう部屋がなく、幼稚園の図書室を使っていた。そこまではよかったが、京都の一人暮らしの義母のことや、我が子たちの今後のことを考えるなかで、将来を見据えたとき、どうしても、私は自分の家が必要だと感じ、少し早いとは思ったが、伊那高原の私の実家近くに、百坪ちょっとの土地を得て家も完成していた。そして夏休みの一ヶ月をかけ、家族みんなで、書籍の多い私の書庫兼書斎となるログハウスを、家族みんなで建てた。この伊那高原にいた時にどうやらクロスは相手をみつけて交尾したらしい。

安曇野の幼稚園から、その伊那高原までは、中央高速道路使用で、一時間ほどの距離だった。その伊那高原の自宅へ、順次家族が移り住み新しい拠点にするのは、何年か後になるのだが、それまでは、夏休みや春休み、そして年末や正月などに、別荘気分で出かけて使っていた。どうも、クロスは、その伊那高原へ行っていた時に、私の目をぬすみ、家族が寝静まった夜に、何処かへでかけ、出産した八頭の子犬たちの父犬と会い、そして私が起きる朝には、帰って来ていたようなのだ。クロスは、何処にいてもつないだりせず、フリーにしていた。野生的な、いつでも無断外出のジョンとは違い信頼のできる賢い犬だったからだ。

その相手の犬のことで、クロスを連れて伊那高原の自宅の周りをあちこち歩いてみたことがあった。しかし、自宅周辺の住宅地のあっちにも、こっちにも、いろいろな犬たちが外でクサリや紐でつながれていて、それらの犬たちと対面するクロスの反応を見るのだが、はっきりと、責任をとって、子犬たちの父親であると認知してもらえるような犬を特定することは出来なかった。

ジョンは、このクロスの出産を知ると何回ものぞきに来た。それに対し、クロスは特に警戒することはなかったし、ジョンが子犬に鼻をつけ、その鼻でひっくり返しても、おこることもなく、平然としてゆったりとしていた。しかし、考えてみるとジョンもクロスと同じ雌であり、妊娠のチャンスはあったはずである。ジョンは無断外出の常習犯で、しょっちゅう何処かへ消えていたが、他人の家を訪問したり、駅前広場の大きな欅の木の下でいろいろな人々を眺めたり、接触したりしていて、子犬を産み育てることへの関心は、ほとんどなかったことに気づく。しかし、恋はしている。まる一日、小柄な黒の雑種犬の牡と遊び狂い、自分の餌鉢の前に伏せまでして、その黒灰色の犬に自分のドッグフードを提供している姿を私は見た。

そいつは、首から長い鎖をジャラジャラ音をさせて引きづっては現れ、一度はその鎖に何処かの畑の黒の雑草避けのビニールシートまで絡ませて何メートルもの長さに引きづっていたこともあった。まったくあいつは変な趣味のやつだった。まあ、よかったような、可哀想だったような、ジョンが出産と子育てを体験しないで生涯を終えたことに、私としては複雑な思いは残っている。

さて、クロスの出産後の一週間ほどは、私が夕暮れの散歩にさそうと、さっと反応して、喜びながら砂場のあたりまで走り、また幼稚園の門のところまでは来たが、そこで足は止まり、子犬たちの存在が気になり後ろを振り返り、私を見て「くー、クー、くー」と鼻を鳴らした。「そうか、子犬が気になるんだな、いかなくてもいいぞ」。そう私が声をかけると、ジョンの方にも一瞬目を向け、子犬たちのところへ帰るのだった。あんなに散歩の好きだったクロスなのに、母親になったんだなー、えらいなーと、私は感動した。

Inu1062yyh クロスの時も、そして、このクロスの子のリーが後にお産した時も、私が感じたのは、心を向ける対象、愛情を注ぎ込む我が子を得たときの母犬たちの雰囲気には、一種独特なものを感じた。これは、私の妻の五回のお産の時に、私が病室を訪ねた時に感じたものと共通する、不思議というより、ゆったりとした、神秘的な雰囲気だった。

狭くて暗い粗末な物置部屋の隅でありながら、そこには、ゆったりとした、何かこの世で一番大切な時間が、静かに輝いて、やさしく流れているように感じられた。間隔を置いて、一つ一つの命が順番に、半透明の薄い真珠色のカプセルの中に大切に包まれての誕生だった。その一つ一つの命のカプセルに、クロスは鼻を近づけ、口と舌でそのカプセルの包みを破った。そして、この世への誕生を、ペチャペチャと乱暴なくらいになめまわして迎えているのだった。

思えば、今、私のそばで一頭だけになった、十歳になるリーは、この時のクロスが私に残してくれた最高のプレゼントだったんだなー、と感じて、胸が熱くなるのです。そして、クロスのこうした二回の出産があったが、その生まれた子犬たちを全部我が家で飼うことは、むろん無理だった。幼稚園関係、教会関係などを中心に、引取り手をさがして、とても辛い別れの日を迎える。そして、その後の様子も見に行く。しかし、我が家のように自由に、幸せに暮らしているようにはどうしても見えない家庭もあり、心痛むことが多かった。そうした辛さの中にあった時に、今度はクロスの子のリーの二回目の出産が、伊那高原の真冬にあった。その時の私の精神状態は最悪であった。

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第一章10「子犬たちとの別れ」

子犬たちと過ごした日々は本当に楽しくそして短かった。その子犬たちと別れることは、やはり、とても辛く悲しいものだった。しかし、独立への旅立ちは、振り返れば、この私もそうだった。我が子たちにも、それぞれに、自分の道へ旅立って行く日はくるのだ。クロスの産んだ八頭の、やや、やんちゃな子犬たちは、それぞれの飼い主たちに出会い、幼稚園が春休みに入った春の日に、クロスから、そして、私と妻から、我が子たちから、次々と旅立って行った。そして、子犬たちの旅立ちを見送る母犬クロスの姿勢は、立派で感動的だった。そのクロスの姿が私の救いだった。

当時の我が家には、ニ男三女の五人の子に加え、 ハスキー犬のジョンとラブラドール犬のクロスがいた。そしてクロスの産んだ八頭の子犬たちが、そこに加わったのだ。さらに、壁一つ隔てた隣りの幼稚園には、毎日元気な数十人の園児たちもやって来た。それはもう、毎日がお祭りのような日々だった。若かった私たち夫婦であったからこそ、特に大変とも思わず生活していたんだなーと、六十歳を過ぎた今は、ちょっとした驚きを感じる。

しかし、一つ屋根の下に我が子五人が揃い、家族が食卓を囲み、生活していた年月は、振り返れば本当に短かいものだった。懐かしい、あの日々は、もうかえらない。この自分も親元を離れ、高校卒業の春に、東京へ一人旅立った。あれが私の親離れ、生まれ育った懐かしの我が家、故郷との別れの時だった。

六頭の子犬たちの目が見えるようになる前から、我が子たちは、それぞれにお気に入りの子犬をリビングのストーブの周りに抱いてきて、それぞれが、「カバ子ちゃん」とか「熊ちゃん」などと、愛称をつけて可愛がっていた。ヨチヨチ歩きができる様になると、誰もいなくなった夕暮れの幼稚園のホールに八頭の子犬たちを出して、ボールなどを転がして遊ばせた。ホールの広場の一部にオシッコやウンチ用の新聞紙を敷いたりしたが、たいがいは、あちこちの床の上ですることが多く、そのつど、我が子たちは大騒ぎをして雑巾やトイレットペーパーを持って走り回った。子犬がオシッコやウンチをするときの姿勢が、また可愛らしく、その姿勢をとるのをみんなが見張り、それを見つけると、ゲームを楽しむように「キャー、きゃー」言って子犬たちと一緒に走り回っていた。

やがて、八頭の子犬たちは、広い庭でも遊び、夜になり小部屋に入り眠る。しかし、その小部屋の仕切りのカーテンの下をくぐって、私たちが食事をしているリビングの部屋へ勝手にノコノコと出てくるようになった。一頭が出るとたちまち、すべての子犬たちがが出て来た。そして、食卓の上の食べ物のにおいに鼻をクンクンさせる。つい可愛いから、少しやる。そして、ウンチやオシッコ…。

しかし、そんな大変さも、そう長くは続くことなく、別れのときがやって来た。 生後二ヶ月を過ぎて、幼稚園が春休みに入り、四月の新学期を迎える少し前になり、次々と声をかけたり、かけられたりした家庭から、子犬を引き取りに来た。その日はたいがい、我が子たちが家にいる休みの日や時間帯が多く、外で子犬を新しい飼い主に引き渡し、私が家に入ると、我が子たちは、マンガや雑誌に目をやり無言だった。

私もつらかった。しかし、もらいに来る方は、「まー、かわいい」とニコニコ笑顔だった。中には、果物店でリンゴを選ぶように、時間を楽しんで品定めをするように、こっちの気持ちなどおかまいなしのように感じてしまうこともあった。思えば私もそうだった。子犬を育てた飼い主と、その家族の心や、子犬たちの心など、考えもしなかった。「一頭くらい、あの子犬だけでも、残してくれたらよかったのに…」との思いを家族は持っていたようだが、あまり口には出さなかった。にぎやかすぎる我が家の現状も理解していたのだ。

ところが、そんな子犬たちとの別れの悲しさを乗り越えた、新緑が目に眩しい五月の連休が終った頃だった。もらわれて行った黒の雌が、いばり犬になってしまい、手におえないから返したいとの電話が入った。それは伊那高原にある私の実家からだった。夜は家族が一緒に布団の中で寝て、オシッコの時は外に連れ出し、最初のしつけの頃から本当にみんなが、可愛がり、大切にしていた。広い敷地を持つ農家であり、梨やリンゴの広い農園も持ち、さらに乳牛を十頭近く飼っていた。 私の兄は、いつも農村トラックの助手席に、その「マリー」を乗せ、春の光が降り注ぐ梨園やリンゴ園に連れて行き、自由に遊ばせていた。いつも先に助手席に乗せてから、帰りの仕度をして車に戻ると、ハンドルやラジオの部分を噛んでいて、ついにラジオのダイヤル部分を壊されたり、ハンドルもあちこちかじられ、ボロボロになっているのを、兄は笑いながら私に見せたこともあった。

牛舎にも入り、牛に踏まれそうになりながら、あちこちで、数々のいたずらを繰り返していたようである。あの賢いクロスの子とは思えないDNAが混じった感があった。クロスの子犬の時の様子とは全く違っていた。 そして、猫しか飼ったことのない家族が、軍手を三重にはめて、猫にするように畳の部屋で、からかっている内に、その家族の背中に噛み付き、負傷させるまでのいばり犬になっていた。

兄のいない時だったらしい。そんなことから、私のところに電話が入ったのだ。私はすぐに引き取りに行った。家は留守で、小さなケージに入れられていた。生後四ヶ月ほどに成長していたがまだ子犬だった。 それが、現在私の唯一頭の飼い犬(十一歳)として残っている「リー」である。今も、時折り実家に行くと、リーは覚えていて、遠くから兄夫婦やその家族のもとへ走って行き、尻尾を振り挨拶する。リーにとって、短期間であったが、可愛がってもらったことを、決して忘れてはいないのだ。

ただ、飼い主側が、犬との接し方をよく知らなかったのだと思う。今は前のように兄の家族は猫を飼って可愛がっている。 他の子犬の中で、子ども四人の家族の家にもらわれていった牡の「武蔵」と命名されたのがいる。園児を送って来た時に、必ず私のいる事務室に飛び込んで来て、私に挨拶した。そして、何を思ってか、私が事務机に座り、書類の整理などしていると、私の足元に伏せをして、動かないのだ。「おれは、ここがいい」とでも言う雰囲気だった。

この「武蔵」の飼い主となった家庭は、ご夫妻が医師で、四人の子どもたちも犬好きの、明るい家族だった。幸せな日々を過ごしている「武蔵」であることは間違いなかった。この犬もいたずらで、車のタイヤをかじったり、バンパー辺りを壊したり、木の柵を壊して、隣りの家の物まで壊す大変なイタズラをしていたが、笑って済ましている大らかな家族だった。 その「武蔵」が安曇野に延びる一本の大通りを散歩しているのを見かけ、私は車の中から声をかけた。それがいけなかった。飼い主を引きずるようにして後を追うのだった。私はスピードを上げ、走り去った。

もう一度、河原で出あった時は、遠くで私の声を聞いただけで、猛然と綱を引いて走り出し、飼い主は転倒して軽い怪我をしたこともあった。そんな時は、複雑な気持ちになるのだった。もらわれて行った八頭の、それぞれの十分すぎるほどの幸せを、それぞれに十分知りながらも、私は、もう、自分の飼い犬が子犬を産み、その子犬を他者に手放すような勇気を失っていた。

そんな自分勝手な、弱い自分に気づかされたのだった。 ただ、幼稚園の犬の大好きなF先生の家にもらわれて行った「アージュ」は、もうすっかり、F先生をボスとして、落ち着きを持っていた。そして、「激流への飛び込み事件」までは、先生と一緒に毎朝、幼稚園にやってくる通勤犬として、ジョンとクロス、そしてりー、またリーの子マークと一緒に、「犬のいる幼稚園」の全盛期の一頭として園児たちと、安曇野の四季折々の風の中に躍動した。

子犬たちと過ごした日々は本当に楽しくそして短かった。その子犬たちと別れることは、やはり、とても辛く悲しいものだった。しかし、独立への旅立ちは、振り返れば、この私もそうだった。我が子たちにも、それぞれに、自分の道へ旅立って行く日はくるのだ。クロスの産んだ八頭の、やや、やんちゃな子犬たちは、それぞれの飼い主たちに出会い、幼稚園が春休みに入った春の日に、クロスから、そして、私と妻から、我が子たちから、次々と旅立って行った。

そして、子犬たちの旅立ちを見送る母犬クロスの姿勢は、立派で感動的だった。そのクロスの姿が私の救いだった。 新しい飼い主に抱かれた子犬の元へ近づき、そのにおいを、飼い主のにおいと共に、記憶にとどめるかのごとく、一、二回かぐと、さっと身を引いて、後をおったりすることはなかった。そして、全ての子犬がいなくなった夜、クロスはもう一度、あのお産をした小部屋に入り、そこにはもう一匹も自分の子犬がいないことを確認すると、自分のソファーに戻り、何事もなかったかのごとく、眠りについた。そのクロスの存在が、子犬たちとの別れの悲しみから、私たち家族を救った。

あの時の我が子五人は、今は成長して、長男も長女も結婚してして、父となり母となった、次女も三女も社会人となった。残る今、高三の次男が旅立つのも、そう遠い先の日のことではない。我が子たちも経験した、子犬たちとの出会いと別れは、その心に、多くのものを、今も残しているに違いない。

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第二章1「母リーと子マーク」

全てを知りながら、全てを許してくれた犬が、今も私と共に生活するリーなのです。これについてはこれ以上深く触れません。ただ真冬の雪の夜、吹雪の中で私は泣きながら、リーに許しを請い、悲しみと自分への絶望感に震えていたことだけを記しておきます。

Inu1012ah 私が、「えっ!」と、思うような有名な評論家や作家が、意外にも犬や猫について、小学生の様な新鮮な驚きや感動を持って、書いたり、語ったりする文章や言葉に出会うと、それまで私が勝手にイメージしていた、その作家に対する評価が、というと偉そうな口の利き方になってしまうが、そういう意味ではなく、その作家に対する、今までの距離や溝がきれいに吹き飛び、一気に、その作家に親しみを感じてしまう。「あー、この人は、いい人だったんだなー」と、ホットすることがある。

そんな一人に、評論家の江藤淳氏がいる。彼の歯にきぬ着せぬ鋭い批評は、文学界だけでなく、政治や社会問題にも向けられ、学生時代に私が読んだ作品などへの、批評に触れる時、頭の切れる近寄りがたい人、私とは全く違う人のように思っていた。

ところが、ある日私は彼の書いた本、「犬と私」を新聞広告で見て、「おっ!」と声を出していた。それまでの江藤氏の書いた書評とはかけ離れた「仔犬と私」とか、「犬の言葉」とか、「本と犬と引越しと」などの目次、そして「犬馬鹿」と自分を評する目次があったからだ。江藤氏がありのままの自分で心を通わせた犬がいたこと、そしてその犬を、とても大切に思っていたことに私は感動を覚え、私は、江藤氏に一歩近づき、二歩近づき、私と江藤氏との接点を見い出し、ホッとしたのだ。

何故私はホッとしたのか、うまく説明できないが、江藤氏は妻の死に直面し、そして、その後を追うように自殺した。その江藤氏に、私が若い頃にイメージしていた人間像と異なる、強さと弱さを合わせ持つ、人間らしさを見たからだろうか。言葉がやや失礼になるが、「いいやつだったんだなー」との思いが熱く湧き上がった。

もう一人、ラジオ、テレビの放送作家、また「父の詫び状」など多数の作品を書いた作家の向田邦子氏がいる。彼女に関しては、たまたま聴いた彼女の講演「言葉が怖い」(新潮カセット講演記録)の話が今も心に残っている。彼女は飛行機事故で突然帰らぬ人となったが、その年に行なった講演記録です。それで聴いた話の中に、犬と猫に触れた部分があった。

彼女の近所に住むとび職のおやっさんが、英語を話す外国人の飼っていた犬を突然もらいうけ、犬に英語で話しかけないといけないからと、向田氏に英語を聞きにきたが、しばらくして、その家の前を通ると、おっさんが日本語で犬に話しかけ、犬も理解していたとの話。

そして、もう一つは猫大好きの向田氏が机に向かって原稿を書いていると、牡猫が彼女の近くを通り過ぎる時、わざと彼女の足を踏みつけて行き、また引き返しながらもう一度彼女の足を踏みつけて、「たまには、おれのこと、かまってくれよ」とアピールするんですよ。との話があった。

この向田邦子氏と、もし、東京のどこかの飲み屋で、私が一緒にビールでも飲む機会があったなら、まず犬や猫のことを話しながら、やがて、人生の深い部分にも触れて、結構朝まで話が続いたかもしれないなと思った。彼女はもうこの世にはいない。彼女の作品については、数冊の本と、彼女の脚本でテレビ放映された、年末や正月に決まって放映された何作かを知っている程度の私だが、彼女は間違いなくいい人だったと私は言い切れる。このように、犬や猫は、全く違う人と人をつなぐ架け橋でもあるのです。

Inu1011ch さて、この章の核心部の記述になりますが、私の現在の飼い犬は一頭だけです。クロスの子犬で、今は十歳になる黒のラブラドール犬です。このリーが、伊那高原の私の部屋で、真冬の吹雪の夜にお産をした。白い半透明のカプセルに一頭ずつが入っていた。だが、その、八頭の子犬の内、様々な人間の側の事情が重複する中で、そのうちの何頭かが、リーから離され、心が疲れ混乱状態にあった当時の私の手によって何処かへ連れ去られたのです。そのリーの出産の前にクロスの二回目の出産があり、その八頭の子犬たちのことで、とても苦労したり、辛く悲しい思いをし、何とか解決したばかりの時で、私は、リーの出産を喜びを持って迎えられる心の状態になかったのです。

そんなひどい私の全てを知りながら、全てを許してくれた犬が、今も私と共に生活するリーなのです。これについてはこれ以上深く触れません。ただ真冬の雪の夜、吹雪の中で私は泣きながら、リーに許しを請い、悲しみと自分への絶望感に震えていたことだけを記しておきます。愛犬家といいながらも、人には話せない心の闇もかかえている。それが私という人間です。

Inu1010cch_1 さて、その時、リーが産んだ子犬の中で、何処へも行かず、リーの元に残ったのが、一際デカくて耳の毛にパーマの長い毛のあるマークでした。その風貌は、どこから見てもラブラドールらしくないものでした。最初の頃私は熊五郎とよんだりしていましたが、最終的にマークと命名しました。家族はマークちゃん、マークチャイなどと、親愛の情を込めて呼び一番可愛がっていたように思う。当時の四頭の飼い犬の内でただ一頭の牡で、一歳を過ぎた夏ごろには、体も一際デカかく成長して、園児たちに一番人気のある優しい犬でした。そして、ジョンと一番気の会う犬でした。

このマークは、母犬より一回り大きな体格となり、私も大好きな明るいやんちゃな犬でした。ところが、ここでも、私は大きなミスをおかし、二歳を過ぎていたマークを事故に巻き込んでしまい、ここでもまた私は、リーの子どものマークを結果的に殺してしまいました。病院のベットの上で、マークは大きな目で私を見つめ、そして二歳ちょっとの若さで息を引き取りました。その時の体重は46Kgでした。この時も、母犬のりーは最後までマークの体をやさしくなめ、飼い主の私を、一切責めたりはしませんでした。逆にリーから慰めを受けたのは、私でした。

Inu1010bh このように、二重にも三重にも飼い主に裏切られ、ひどい仕打ちを受けながらも、リーは、今も私を飼い主として受け入れ、信頼してくれます。そして、家族や幼稚園児たちの中に、悲しみやさびしさを抱えている者がいると、敏感に感知して、いつの間にか、その側に行き、それとなくやさしく寄り添います。今もそうです。このリーに慰めを受けているのは幼稚園児、そして我が子たちや妻、そして誰よりも私自身なのです。

無名人も有名人も、人間はみんな心の中に、世間には明かせない闇の部分も持って生きています。清も汚れも、聖も悪も、合わせ持つのが人間です。そんな中にあって、信頼でき、何でも聴いてくれ、許してくれる犬の存在は大きい。我が子を殺した人間を、人は心から許せるだろうか。

とてもむずかしい事だと思う。人が人を許すことがとても難しい時代となり、また人が人を信じることも同様にとても困難な時代です。しかし、犬は人と人との心の架け橋となり、犬のリーに見るように、全てを感知していながら、許す心を持っている。またどんなに裏切られても、飼い主を信じようとする心を持っている。  やはり「犬はえらい」と心から思う。

この二章1を、私は昨夜の映画「寅さん」の終わった夜十時半ごろから、徹夜して朝を迎え、朝の七時前を迎えて、ようやく書き終えた。何回も何回も書きなおし、逃げていた部分を何とか書き、「やっぱり、徹夜したけれど、いいのが書けなかったなー」と妻に言った。妻は、「残念だったね…」と一言いって台所で朝食の仕度をしている。

家族も妻は何も言わないが、私の心を知っている。そして、一晩中リビングの机に置いたパソコンに向かっていた私の後ろ姿を、リビングからやや奥の食堂の隅で、今は一頭だけになった、そのリーが不思議そうに私の背中をみたり、眠ったりしていた。

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第二章2「流れの渦に、マークが危ない」

妻の声が叫びに変わった。「おとうさーん!、マークが!」。マークは枝に進路をふさがれ、泳ぐ方向を見失い、もがきながら必死で浮き沈みを繰り返していた。

Inu1013h_1 夕焼けが西の空を染め、鳥たちも巣に急ぐ夕暮れ、犬たちとの散歩を終えて、車のドアを開け、私は自分の四頭の犬たちの名前を次々と呼ぶ。三頭が車に入る。そして、「ジョンのやろう、また、どっかへいきゃあがったな。あのバカ」。そう言って、ドアをバターンと閉め、かまわず乗り込み、車のエンジンをかける。

すると決まって、河原の土手の遠くの草むらなどが激しく動き、ハスキー犬のあのふさふさとした羽箒のような尻尾が夕陽に染まってゆらゆらと現れ、ジョンがのんきな顔して舌をたらし、トコトコと帰って来る。そこで私は車の一等席である助手席のドアを開け、「ジョーン、はやくしろー、このバカ!」と、いつも怒鳴って迎えた。

今回は、ジョン、クロス、リー、マークの四頭の犬がとても元気だった、 梅雨の季節が近づいた頃の話です。その日私は犬四頭を連れて、普段の散歩コースをやめて、犬たちを泳がせてやろうと、犀川へ出かけた。妻も一緒だった。

私たちは高い堤防から河原に下りて、大きな橋下の川岸で犬たちを自由にした。泳ぎの嫌いなハスキー犬のジョンと、泳ぎはうまいが慎重派のラブラドール犬のクロスは草むらの広場のあちこちて探索を始めていた。リーとマークは私たちが腰を下ろした岸辺から、やや増水している浅瀬で、さっそく泳ぎ始めた。太陽は厚めの雲に隠れて、蒸し暑い日で、風もなかった。

私と妻の目の前には犀川にかかった橋の楕円形の太い橋脚があり、そこにぶつかる流れが盛り上がり、小さな渦巻きが見え、やや太い小枝がギシギシと不気味な音を立て浮き沈みしていた。

Inu1002ah 「ちょつとここは危ないな」と、私は感じたが、泳ぎは私同様にうまい犬たちなので、そのままにした。そして、その渦の方向へマークが吸い寄せられるように泳いでいくのを見たのは、私が岸に腰を下ろした直後だった。妻が慌てて、「マーク!、危ないよ!」と声をかけた。その声でマークは、私たちの方へ戻ろうとした。

しかし、遅かった。尻尾の方から、その渦に吸い寄せられるように徐々に流され、あれよあれよと見ている間に、大変な事が起こった。マークの体が、橋脚近くの小枝と一緒に浮き沈みを始めたのだ。妻の声が叫びに変わった。「おとうさーん!、マークが!」。マークは枝に進路をふさがれ、泳ぐ方向を見失い、もがきながら必死で浮き沈みを繰り返していた。

私は、マークの危機を感じて、何とかしなくては、と立ち上がった。その時だった。やはり、我が子の異変にいち早く気付いていた母犬のリーは、素早かった。ゆったりと流れに乗って斜めにマークに近づいて行き、パニック状態の我が子の体に自分の体を寄せたのだ。私と妻は息をのんで見守った。

マークは母親に体をくっけられたことで落ち着きを取り戻し、頭をそろえて並んだ。そして、二頭は斜め下流の岸方向へグイッと泳ぎ始めたのだ。リーは見事にマークを危機から救ったのだった。見事というしかなかった。

Inu1015h 私は、マークの名前を呼んだ、そしてそのデカイ頭をポンポン叩いた。つづいて、ジョンを呼び、クロスを呼び、最後にリーの名前も呼び、堤防を上がり、土手沿いの草道へと場所を変えた。「リーはえらい」、と私はつぶやいていました。しかし、四頭の犬の名前を次々と大声で呼べる幸せに、まだこの時の私は気付いてはいなかった。

これを書く今は、もう、散歩の帰りに、ジョンの名も、クロスの名も、マークの名も、呼ぶことがない。しかし、今も時々中房川や犀川や、三峰川で、声の限り呼ぶことがある。

そんな時、リーは、今でもパット顔をあげ周囲を注視し、そして私の顔を見上げるのだ。夕暮れの散歩が好きで、夕暮れには、あちこちに出没して、「夕暮れおじさん」と呼ばれていたかもしれない私だったが、最近は、何だか夕暮れの散歩は、さびしすぎる…。と、感じることもある…。

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第二章3「私が出会った九頭の犬」

  何故だろうと、不思議に思うことがある。それは、私の人生で出会った九頭の犬たち。移り過ぎた歳月と季節の中で、こんな私と共に過ごし、生きてくれた犬たちと共にあった私の人生の懐かしい風景に、こうして心を向ける時、何故かとても素直で、正直なありのままの自分になれることだ。

Inu1032oh_4少年の日、私が棒を振り回して、農家の広い敷地内や畑を走り回っていた時代は、鶏が放し飼いにされていて、ボスの大きな雄鶏が自分の群れを守っていた。そして、私の住む周辺の家々でも犬が飼われ、ほとんどが放し飼いにされていた。我が家にはジョンという雌犬がいた。たしか黒毛の中型犬で、目の眉毛の辺に茶色毛の部分があり、犬が眠っている時には、それが目のように見えた記憶がある。

その「ジョン」の首をギューと私が抱きしめて、田んぼの土手に腰かけて撮ってもらった写真が一枚だけあった。しかし、いつだったか、遠方から母の娘時代の友だちが来て、数少ない白黒写真のアルバムを見せ、きっと、その友人に「わー、この写真素敵ね!」ぐらいを言われた母は、「よかったら一枚あげる」と、あげてしまったらしい。その写真は、私より十四歳上の姉の地方新聞の記者をしていた婚約者が撮ってくれたものだったと思う。この一枚の写真のことで、後々私は母を何回も責めた記憶があり、そのつど下を向いて黙っていた母の姿も鮮明に思い出し、今ではちょっぴり胸が痛む。私は母が四十二歳の時の子であり、長兄とは十二歳、私の上の次兄とは、九つ歳上でなのだ。

そんな末っ子の私が近所の友だちと遊ぶ時、ジョンはいつも私について来た。時々友だちと買い物で、田舎道を学校のある方向の街中へ出かける時があり、そんな時、何回も「ついて来るな」と言うのに、一定の距離を保って後ろからついて来るので、困ったことを覚えている。その頃の我が家では冬が近づくと、台所の南側に、腕ほどある太さの木で骨組みを作り、その年の新しい藁を使って、毎年決まって父が大きな雪囲いを作った。

Inu1032yyh_4 その作業が始まると、「あー、いよいよ雪の降る冬が来るんだなー」と、子ども心に、私はたのしみな、ワクワクする気持ちになった。それは、家族みんなで漬ける漬物、野沢菜の味、おこうこ(タクワン)の味に代表される食卓の味覚へのワクワク感。また、新潟の糸魚川から魚の干物などを背中に山のように背負って、行商のおばさんたちが山国の伊那高原に運んでくる、海の味にも繋がるワクワク感であった。そして、雪の降る日の外や内での遊び。そして暮れと正月を迎える楽しみなどが詰まった、家族と一体になって、厳しい冬を迎える前の一種独特の季節感だった。日本でも有名になった「大草原の小さな家」シリーズが私は好きで、NHKテレビで毎回観たが、あのアメリカ開拓の時代にあった家族の持つ雰囲気に近いものを、私は自分の幼少期の生活の中に持っている。

父が何日もかけて完成させた、その雪囲いの小屋の中には、一本の角材に、やや厚手の四角い板を釘で打ちつけただけのシンプルな「雪かき」の道具があったのを今でも、その色や形まで鮮明に覚えている。他に、春から秋にかけて、普段は軒先にあった農具などもあった。完成した雪囲いの小屋に入ると、プーンと藁のにおいがした。私は今でも、この藁のにおいをかぐと、心がとても落ち着く。

さて、その冬囲いの藁小屋の中で、確か雪の降る寒い夕方だった。ジョンが何匹かの子犬を産み、私は父に少しの時間だけ見せてもらった。私がのぞきに行くと、ジョンは普段とは違う雰囲気で、私を警戒する姿勢を見せた。しかし、その後、子犬たちがどうなったかの記憶はない。

Inu1029gonh_4 その、私にとって初めての黒い犬に、「ジョン」の名前をつけたのは、たぶん父だったと思う。その事を感じたのは、大学を卒業し、児童福祉施設で働いた後、私は三十歳を過ぎてから、思うところあって妻と幼い長男を連れて、東京町田にある神学校へ入学した。そして英語聖書の目次に目を通した時、あの犬のジョン(John)という名は、聖書に出てくる「ヨハネ」というイエスキリストの弟子の一人の名前であることに気付いた。

その時、「あー、そうかー、クリスチャンだった父は、聖書から、犬の名前をきめたのかもしれないなー」と、感じた。私には、そのジョンが、一番最初に出会った自分の犬でした。そして、中学から大学の時代は、「チメ」という奇妙な名前の猫が、名前も受け継がれて、何代かに渡って飼われ、再び犬が飼われることはなかった。大学を卒業して勤めた、大阪の児童福祉施設で、私の二頭目となる犬に出会う。私の担当ホームの中学生の子が、学校帰りの大きな川で、流されて来た子犬を拾った。そして、その子が「牙」と命名していた。この「牙」の写真を、今見て驚いた。私の中におぼろげに残る「黒ジョン」の姿にそっくりな気がするからだ。

次に私のホームに加わったのは、天王山の麓近くで野生化した犬の群の中の雌犬が、事務室の床下でお産をしたことがあった。その中の一頭を、危険を冒して縁の下から手に入れて飼った。やや毛の長い真黒な犬だった。

その頃、有害添加物の「チクロ」という言葉が流行っていた。そのこともあったと思うが、小さくて黒い犬だったので、私は、「チクロ」と命名した。これが、私が出会った三頭目の犬でした。さらに、もう一頭が加わった。狩猟が解禁になった、秋も深まったシーズンでした。私は中学生や高校生と早朝マラソンをしていた。ある朝、山寺近くを走っていた私に、その迷い犬が、どこまでもついて来た。犬好きの私が誘導したと言う職員もいた。それはともかく、それが私の出会った四頭目の「ゴ-ン」(大型の立派なボクサー犬で牡)である。その犬と出会った山寺には大きな鐘つき堂があったから「ゴーン」にした。子どもたちは短く「ゴン」と呼んでいた。

Inu1031ah_4さらに、他のホームの女の子が私の所へ持ち込んだ子犬がいた。毛のムクムクした白黒の犬だった。これが、私の出会った五頭目の犬で、「熊」と名前をつけた。

以上が、大阪の児童養護施設時代までに出会い、私が飼った犬の履歴である。そして、安曇野の教会&幼稚園に来てから、さらに私は、ハスキー犬「ジョン」、ラブラドールの「クロス」、このクロスの子の「リー」、このリーの子「マーク」の四頭に出会うのである。今後、これらの九頭に触れながら、思い出すまま、思いつくまま、書き進めようと思う。

クロスの幼稚園デビューの日について、書こうと思って始めたのに、今回は、私の飼い犬履歴紹介になってしまった。当時の写真をログハウスの中に入り、あちこちと探し、ようやく古いアルバム三冊を見つけた。その内の一冊に、ここに紹介する「大阪水上隣保館」時代に出会った四頭の犬たの写真が出て来て、それを眺めながら、徹夜になってしまい。文章も進まなかった。

そのうえ、他の古い二冊のアルバムには、やはり、その児童福祉施設時代に出会った妻との写真、新婚旅行の海で泳いだ時の妻のビキニ姿の写真まで含まれていて、それらを見るともなく目にしてしまい、すっかり調子が狂ってしまった。やれやれと、犬たちの載ったアルバムだけを持って居間に戻り、パソコンの前に座りなおした。

そして、犬たちの写真を、パソコンに取り込む作業をしながら、当時を思い起こすたびに、頬を熱いものが止め処なく流れた。家族から様々な事情で離れ、そして福祉施設で三年間寝食を共にした家族同然の子どもたち、そして犬たち四頭を見捨てて、私は逃げるように、あの施設を去ったのだった。あまりにも苦しく悲しい出来事だった。

しかし、それから数年後に、私はこの福祉施設を訪れている。その時、懐かしい犬たちのいた屋上のベランダへ出ると、突然激しい犬の鳴き声が私を襲った。見ると「熊」であった。私は思わず。「誰に向かって吠えているんだ!」と叫んだ。私が見捨てた「熊」は、私を忘れてはいなかった。すぐにその「熊」と散歩に出た。天王山を背にした懐かしい広い敷地内を、胸のつぶれる思いで歩いていた。当時、ヨチヨチ歩きだった女の子も私を覚えていた。もう小学生になっていた。私の訪問を知った、私を覚えている子も、そうでない子どもたちも、次々と私の周りに集って来た。そして、私と「熊」との散歩に加わっていた。

再会できたのは「熊」一頭だけだった。他の三頭の犬たちの運命を私は、散歩の前に聞いていた。「牙」は、ベランダにつながれることが多くなり、オシッコを我慢しているうちに病気となり、私が去った、一つの季節が終わる頃に死んだ。そして「チクロ」は、いつしか、自分の父や母、兄弟犬たちの野犬の群との間を行き来するようになり、やがて姿を消して、私が去った後は完全に姿を消していた。「ゴン」は、子どもたちに危険だと、職員会にかけられ、最終的には、保健所に引き渡された。

Inu1033wh_2 今私は、二十数年前の日のことを書いている。しかし、私には決して昔の事には思えない。三日飼われた犬は、生涯その飼い主を忘れないと言う。今はもう、大阪で出会った、「牙」も、「チクロ」も、「ゴン」も、そして「熊」も、この世にはいない。

何故だろうと、不思議に思うことがある。それは、私の人生で出会った九頭の犬たち。移り過ぎた歳月と季節の中で、こんな私と共に過ごし、生きてくれた犬たちと共にあった私の人生の懐かしい風景に、こうして心を向ける時、何故かとても素直で、正直なありのままの自分になれることだ。

与えられた環境の中で、飼い主を信じ続け、精一杯生き抜き、そして、私に捨てられ、消えていった犬たち。見捨てられても、なお飼い主を忘れなかった犬たち。本当に「犬はえらい」。

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第二章4「John(私)最大の危機」

このジョンとクロスが、それぞれに、私を追って激流に、決死のダイビングをしたことを妻から聞かされた時、私の脳裏に、「運命共同体」という言葉が浮かんだ。そして、何だかとても、ジョンとクロスがいじらしく思えて、たまらなかった。ジョンとクロスの足の爪は根元まで摩滅していた。特に前足がひどかった。爪の芯から血が噴出していた。その痛みに耐えて、コンクリートの上に印すジョンとクロスの足跡は、飼い主と取り交わす「運命共同体」の血判状のように、私の胸に熱く届いた。

Inu1054h まさに「犬のいる幼稚園」と呼ばれるに相応しい犬の全盛期でした。まず、私の四頭の犬たちがいた。ジョンとクロス。そして、クロスの子、リーと、リーの子マークだった。そして、幼稚園教諭のF先生のところへ、もらわれて行った、クロスの子アージュが、毎朝F先生と一緒に「おはよー!」と一日も休まず、通勤していた。私は、このアージュを「通勤犬」と呼んでいました。

さらに、この時期は、幼稚園の子どもたちが、犬のいる幼稚園の影響を受けて、「家でも犬を飼ってほしい」と親たちにたのみ、クロスの産んだ子犬を引き取ったりして、犬を飼う家庭が増えていた。そんな園児家庭の犬たちが、朝の登園時間に、園児たちに混じり、庭で一緒に走り回っていた。

群れにはリーダーが必要である。当然ながら園児たちのボスは私であった。そして、犬たちの方は、当然のようにハスキー犬のジョンがボスとなっていた。このジョンは、見た目にもボスらしい風格もあった。また、冬には犬ぞりに園児たちを乗せて、園の周りの雪道を快走して、地方新聞やテレビにも取り上げられ一躍有名なハスキー犬として、存在感を増していた。このハスキー犬のジョンを見た園児の父親がアラスカンマラミュート犬を飼うようになり、成犬になると、その超大型犬「ガイ(牡)」も、一緒に犬ぞりをひいた。

そうした、幼稚園における犬の全盛期に、私にとっても、園児たちにとっても、一歩間違えば、「安曇野にある私立幼稚園の園児たち、増水した大型農業用水路の濁流に次々転落、五名溺死、二名重体、一名は行方不明」。「問われる大型犬のいる幼稚園運営」。「発端は、川に飛び込んだ犬を救おうとした園長の行動」、「園児より犬の命をを優先させた園長と主任教諭」、「その園長と犬五頭は日本海で、漁師に発見されるも、全て意識不明の重態」。「専門家が指摘する、コンクリート化した川の危険」。などのニュース見出しが各マスコミの中で踊る、大変な事態に発展していたかもしれないのだ。

今だからこそ書ける、私ことJohnにとっても園児たちにとっても最大の危機が起こったのです。それはその年、1999年5月20日に行なわれた春の遠足日より少し前の、梅雨の走りの天候が続き、ようやく雨が止み晴れ間が出て来た日だった。私は、園庭などでたいくつそうにしていた犬たち五頭を、散歩に連れて行くことにした。犬との散歩と聞いて、どうしても一緒に行きたいという男の子たちがいて、男子に限り、希望者を連れて行くことにした。

そこで、私と妻と犬五頭、そして男の子たち十数名は、久しぶりに田園へ出た。春先にいつも散歩するコースだった。特に危険な個所はないはずだった。到着すると犬五頭が、広がる田園の中へ、自由に放されて田舎道に散った。車はめったに通らない見通しのよい田舎道だった。子どもたちも二人ずつつないでいた手をはなして、自由に散った。田んぼの土手の新緑の草花が雨上がりの薄日の中で、新鮮に輝き始めていた。

少し進んだところに、やや大きく深いコンクリートの水路があり、南から北へ向かって流れているのは知っていた。普段は十センチほどの浅い流れで、犬たちは春先にはそこへ入ったり、飛び出したりしていた。その用水路にアージュが近づいた。「アージュだめだよ、入るなよ」と声をかけた。しかし、次に私が見たのは、アージュが飛び込み、その飛び込んだ時の「ザブーン」という大きな音と、跳ね上がる多量の水飛沫だった。

その日、その水路は、縁スレスレに満々と水を湛えて、凄い速さで流れていた。私の犬だったら放っておいたかもしれないが、あの犬好きのF先生と一緒に通勤し来るF先生の犬、アージュだった。私は素早く、子どもたちを近くの田んぼの土手に集め、そこに座らせ、「絶対に動くなよ」と、念を押して命じて、流されて行くアージュを追った。

そして、飛び込んだが、腰まである流れの圧力はすごく、私も流された。その私を追ってきた、マークがおもしろがって飛び込んできた。それを見た母犬のリーが続いた。コンクリートの幅二メートルほどの水路の流れに乗って、私はアージュを追った。どこかでアージュが水路から上がれた時、そのアージュを、連れ戻さなければならない。との思いがあり、この時は、下流に行けばなんとかなると思っていた。ところが、その水路は、途中で直角に曲がり、その先の幅の広いコンクリートの下に、突然もぐって消えていた。太い土管らしいものが見えた。おそかった、私は濁流と一緒に吸い込まれていた。

Inu1047dh 気がつくと、目の前が明るくなり、体が多量の水と一緒に飛ばされて、落下した。今度は先ほどの用水路の何倍もあるような、やはりコンクリートの大きな水路だった。水量はまだ腰ぐらいあった。あとはほとんど覚えていないが、近くにマークとリーがいて、水流にお尻を押されて、早足で川底を歩く私を見ながら、、私の方に顔を向けて、やや下流で浮いていた。

その時だった。妻の叫び声を遠くで聞いた。振り返ると、橋の向こうから、妻が私に何かを言っていた。私は振り返った。そして、今見上げる橋の下を流されて来たにもかかわらず、そこに橋があったことを初めて知った。

妻が何か言って水路のわき道を走って来た。何かを叫び、上流を指差していた。私はもう一度後ろを振り返った。そこだけ薄暗い橋の下に、白い子どもの顔が浮き沈みして流れて来るのが目に入った。それを見た瞬間、私の頭の中は真っ白になった。

私は、その後どうやって、そのコンクリート水路から出たのか。まったく記憶がない。ただ歩くたびに、少しずつ、水の嵩が低くなり、しまいには運動靴が見えるぐらい浅い流れになっていたのを覚えている。気付いた時、私は、水路から少し離れた高い畑の土手の上に座っていた。近くには長いベロを出して激しく息をするリーとマークもいた。

見ると、水路の川が大きくカーブした向こう側に、妻と子どもたちが集って、笑いながら私に手を振っていた。私は腰をちょっと浮かした姿勢で、「ジョーンは、アージュはー、どうしたー」と両手でメガホンを作り大声で叫んでいた。すると妻は、笑顔のままで、子どもたちの周りの何箇所かを大きい動作で指差している。一、 二、 三 、と三箇所を何回も繰り返して指差していた。

かなり遠いのに、妻や子どもたちの笑顔の表情がハッキリと見えた。「アージュ、        クロス、        ジョン、」を指差していたのだ。   三頭の犬たちは無事だったのだ。みんな笑っている。手をたたいている子もいた。その子どもたちの前には、黄色のお花畑があって、照ってきた明るい太陽の光りが、子どもたちを照らし、黄色い花々に囲まれて、とてものどかな光景に見えた。

みんなから少しは離れて、一人の見知らぬ年配の男性が立っていた。この元体育教師のAさんが、自宅の庭から、私たちが犬をつれて散歩に現れた頃からの一部始終を見ていて、異常事態に気付き、先回りして、この地では、拾ヶ堰排水路と呼ばれる水路へ流れ落ちる手前の大きなカーブのところで、まずアージュを、しばらくして、ジョンとクロスを救ってくださったことを私は後で知る。「立派な大きな犬が、次つぎ流されてくるんで、驚きましたよ!」と、定年で中学校を退職されたばかりの、体育の先生は、後日、改めて私がその自宅を子どもたちと一緒に訪れた時に語った。

子どもたちは誰一人転落してはいなかったのだ。あの時、そこだけが暗い橋の下に見えた白い顔は、ハスキー犬のジョンの顔だった。ジョンは顔だけ出して、私と同じように立ち歩きして流されていたのだった。

私は、目の前の光りに満ちた光景の全てが、現実の今なのだと、思えたとき、体から全ての力が抜け、どっと涙が流れた。そして、そこで初めて、向こうで手を振るみんなに大きく手を振った。そして足もとのタンポポをながめ、青空を見上げ、もう一度犬たちと園児たちをながめ、みんなが生きている感動に震えていた。死の淵からの、不思議な生還だった。

ジョンは、妻が強く握っていた手綱ごと、水路に自ら飛び込んだという。あの泳げないジョンが、流れに飛び込むことは考えられない事だった。妻は走った。妻の後をクロスが追った。妻は必死で直線コースを走り、農家の庭先も畑の野菜も蹴散らして懸命に走り、比較的早く私を川底に発見したのだ。何故、子どもたちを危険な場所に残してまで…。と誰しも思うかもしれない。しかし、泳げないジョンが、私を追って飛び込んだのだ。それは死を意味した。妻は、このままではジョンが確実に死ぬと思ったという。しかも、首にはロープをつけたままだった。一刻も早く私に知らせなければと思ったのだ。

Inu1045ahでは、クロスはいつ飛び込んだのか。それは、妻がジョンが飛び込んだことを私に伝えて、子どもたちの待つ土手に帰る途中だったという。一瞬振り返って考えたクロスは、妻の呼びかけを無視して、意を決して、ジョンと同じように、流れに飛び込んだという。

このジョンとクロスが、それぞれに、私を追って激流に、決死のダイビングをしたことを妻から聞かされた時、私の脳裏に、「運命共同体」という言葉が浮かんだ。そして、何だかとても、ジョンとクロスがいじらしく思えて、たまらなかった。ジョンとクロスの足の爪は根元まで摩滅していた。特に前足がひどかった。爪の芯から血が噴出していた。その痛みに耐えて、コンクリートの上に印すジョンとクロスの足跡は、飼い主と取り交わす「運命共同体」の血判状のように、私の胸に熱く届いた。

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第二章5「John(私)ダム湖転落」

出会いがあれば、別れのあることは知っている。めぐり来る季節は、同じような顔をしてやっては来る。しかし、そこに見る人間や犬たちの顔ぶれは異なり、完全に目の前から消え去ったあいつたちが、ひょっこりと何かの影から現れそうな気がして、振り返ったり、周囲を見回すが、何処にもいない。みんな何処へ行ってしまったのだろう。あの輝いた命たちは…。
    

P1000819ah 伊那高原の私の自宅から西山の奥へ、途中の急なカーブのある山道を車で二十分ほど入った所に、経ヶ岳への登山入り口がある。そのすぐ北側の谷間に小学校のグランドほどの広さのダム湖がある。真夏の暑い日には、地元の人々が避暑に訪れ、谷間を下る清流を湛えたダム湖の岸辺で涼をとる。この山奥のダム湖を知っている地元の人々に限られると思うが、夏の休日やお盆前後には、けっこうな数になる。
      
    

夏場には、私もよく訪れ、妻の制止も聞かず犬たちといつも泳いだ。気をつけないといけないのは、湖面から一メートルの水深ではほどよい水温でも、それ以上の水深となると、真夏であっても、雪解けの水が絶えず流れ込むダム湖であり、水温はかなり低くなり、氷水であることだ。ゴムボートなどから転落し、心臓麻痺で命を落としても不思議ではない。北アルプス鹿島槍の麓の「青木湖」もブルーの宝石のような澄んだ水を湛えた広くて素晴らしい湖なのだが、人を寄せ付けない氷水の湖なのだ。
      
しかし、このダム湖は真夏には、気をつけさえすれば泳げた。マークが成犬になって二回目の夏だった。私は平泳ぎで沖へ向かっていた。私の後を追ってマークとリーもついて来た。そして四十キロを越すマークがふざけて、突然私の背中の上に乗って来て、私が沈んだ時だった。下から湧き上がった氷水に息がつまって、あわてたことがあった。喘ぎながら私は「このヤロー、俺を殺す気がー」と、私は本気で怒っていた。その時の、キョトンとしたのんきなマークの顔を今も鮮明に覚えている。大事には至らなかったが、私はやはり危険だなと悟った。
      
私がこのダム湖に転落したのは、リーの子マークがそのニ回目の大好きな夏に向かう前の、早春のことだった。その年の冬は雪が多く、二月下旬に一度出かけたが、その時は無理をしないで引き返した。そして春休みに入ってすぐの時だった、犬を連れて様子を見に行くと、今度は残雪は所々にあったが山道への道路は入れる状態になっていた。特に問題なくダム湖へ到着した。しかし、ダム湖の岸辺までの道路上には、落石があり、大きな角ばった石が数個ころがっていた。
    

そこで私は経ヶ岳登山道入り口前の駐車場へ車を置き、犬たちとダム湖への道を下り、ダム湖の岸へ行く前に、さらに西山奥の道へ向かって歩を進めた。周囲は初冬の頃の風景そのままだが、厳しい寒気は、早春というのに初冬よりも厳しく感じられた。ジョンは、と見ると経ヶ岳とは反対側のダム湖の北側斜面の道をトコトコと軽快な足取りで登っていくのが、遠くに見えた。こいつは、やはりシベリヤの犬である。少しの雪でも、それを見ると、とたんに生き生きとして来て、うれしそうである。そのジョンの登って行く道路は、熊がよく出る方角に続いていた。だが、私は、いつものようにジョンの単独行動を無視した。
      
      

他の三頭は、ボスの私が進もうとしているのは、さらに山奥へ続く道であることを察知して、すでに先の方へ散っていた。「あのやろー、また単独行動だなー」と、私がつぶやいた時だけ、クロスが立ち止まり、ジョンのいる方角に目をやった。しかし、私はそのままジョンを無視して進んだ。早春の陽光が唐松などの木々の間から、所々に差し込んで、残雪に反射し光っていた。また足元の残雪の一部は溶けて凍っていた。ジャンバーや手袋を突き抜けて、チクチクと体に刺し込む寒気だった。道に添って深い渓谷下を、清流が流れ下り、その流れの音が周囲に寒々と響いていた。もう少し進めば谷川にかかる大きなコンクリートの橋があり、その周囲では、大きく空が開けている。その日当りのよい場所を私は目指した。
      
その陽光の降り注ぐ空と、橋周辺が見え始めた時だった、まず足元のクロスが「クークー」と注意をうながす合図の、鼻を鳴らして足を止め、後ろを振り返り、そして私を見上げた。「あんなヤロー放っておけ、気にするな」。いつもの散歩パターンだった。次にだいぶ前方をトップで進んでいたマークが、やはり立ち止まって振り返った。そのマークの視線は、私の後ろのかなり遠方、ダムの方角に注がれていた。そして、次の瞬間マークは猛然と走り始めていた。今来た道に向かって私の横を走りぬけていた。リーがそれに続いた。
    

私とクロスも、続いて走った。道路横の谷川の流れの音に消され、私には聞こえなかった何かを犬たちは聞いたのかもしれなかったが、少し走ってカーブにさしかかった時、私にも聞こえた。やっぱりジョンの「クイーン、キャイーン」の悲鳴と「ウゥオオオオオオー」の狼の遠吠えだった。その悲鳴と、遠吠えがダム湖周辺の谷間に響き渡っていた。
    

P1000822ah ジョンは湖面の北斜面のかなり高い位置で、根元から数本伸びた太い潅木の間に胴体を挟まれて、前にも後ろにも動けず、もがいていた。自然の罠にかかった狼の姿だった。その潅木の周りだけ残雪が深かった。近づく私を見て、ジョンははずかしそうに、耳を前に倒して、「ウヲヲヲヲヲヲー」と低い声で全身の力をぬいて、反省と降参の意を私に表した。
      
      

その潅木の股に挟まれて、身動きが取れなくなっていた。わたしが、そのジョンを引き出した直後だった、助けられたジョンに、「オマエ、何してんだよー、でも良かったなー」と、それぞれにジョンにからみつく、三頭の犬たちに押されて、私は急斜面で転倒していた。そして、そのまま頭から雪の残る斜面を滑り落ちていた。

しかし、途中で体制を整えて、落下していく下を見るよゆうがあった。途中で止まろうと思えば出来たが、すぐ下に見える湖面の岸には、私が立って、歩ける幅のとても細いが小道のあることを、知っていたし、それが、見えた。そして、その通り私はスピードをころして、そこに足から着地した。湖面につんのめったりしないように、手袋をした両手はしっかりと斜面に根を張る小枝などをつかんでいた。この細い岸沿いの道は、夏場に釣りをする人が利用する小道となっていて、渓谷を下る川の入り口方向の砂浜へ続いていた。しかし、沖合いの方には切り立った崖しかなく、私が滑り落ちてきたあたりは、砂浜に近い方だった。それと、冬場のダム湖は砂浜が広くなり、その分湖面の面積は小さくなっていたのが、私には幸いした。
      

そこで゜気をゆるめたのがいけなかった。砂浜方向へ続く、そのダム湖のへりに出来た細い道を注意深く歩いて、砂浜の岸へ、あとほんの三、四メートルのところだった。私は、この時も四頭の犬たちに気をとられ、そこだけが崩れていた場所で、足を踏み外し、不恰好な姿勢で、背中から湖面に落下していた。落ちた瞬間、深いと思った。体が重いと思った。もがきつつ岸へ近づき、手を伸ばしたが、手袋はへりのやわらかい土でぬるぬると滑り、何回も手を伸ばしたが、ダメだった。それよりもう呼吸が止まりかけていた。

そんな私を救ったのはマークとリーだった。沈みかけている私の目の前に現れたのはマークとリーの、ガッチリした皮の首輪だった。それしか私の目には入らなかった。その首輪の中へ、私は手袋の四本の指を入れ、もう片方の指も、もう一頭の首輪の中に入れ、「行けー!」と叫んで、体に残った感覚の全てを奮い起こして懸命に立ち泳ぎをしていた。そして、マークとリーに岸へ引いてもらった。ようやく砂浜の岸に倒れ込み、立ち上がった時、歯が「ガチガチ」と鳴った。そして初めて大きな息が一回出来た。そして、この呼吸が、繰り返し出来たとき、私は初めて「助かった」と思った。
      
    

Inu1014ahhたぶん、マークとリーがいなかったなら、確実に私はダム湖の水深三メートルほどのところで心臓麻痺で命を落としていたと思う。ラブラドール犬の中でも、特に優れた泳力を持つ、この二頭の犬が私の危機を救ったのだ。命を救ったのだ。そうでなければ、私は確実に死んでいた。安曇野の豊科プールで、一周七十メートルのところを二周も泳いで、バイトの兄ちゃんたちを驚かせたマークとリーの二頭だった。
      

 
      

この記事を書くにあたり私は、2007年3月27日、この年初めて、あのダム湖へ、今は一頭だけになった愛犬リーと向かった。暖冬だったこの冬は雪が少なかった。しかし、ダム湖周辺には残雪も見られ、まだ厳しい寒気の中にあった。この日は冷たい春雨の日だった。ダム湖の面積は夏場よりもかなり狭くなっていたが、その岸辺の右寄りに、まだ新しい花束が二つ砂利石の中に立てられていた。見ると一握りの線香も立てられていた。

P1000824ahその線香は半分ほどが燃えて消えていた。誰かがこのダム湖で命を落とし、その家族が、このお彼岸の時期に、ここを訪れたのだろうか…。小雨の中、その近くだけまだ、薄い線香の香が漂っているような気がした。リーが近くによって鼻をクンクンさせていた。私は小さく胸の前で十字を切っていた。複雑な気持ちで、目を岸の後ろにそらすと、その花束から少し離れた砂地に焚き火の跡があり、焼肉などをした痕跡もあった。
      
      出会いがあれば、別れのあることは知っている。めぐり来る季節は、同じような顔をしてやっては来る。しかし、そこに見る人間や犬たちの顔ぶれは異なり、完全に目の前から消え去ったあいつたちが、ひょっこりと何かの影から現れそうな気がして、振り返ったり、周囲を見回すが、何処にもいない。みんな何処へ行ってしまったのだろう。あの輝いた命たちは…。

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第二章6「マークとの別れ」

私や家族の悲しみを、現実の中で、やわらげてくれたのは、我が子マークを亡くした、リーであった。そしてジョンでありクロスであった。もし、あの時、そばにマークの母犬、リーがいなかったなら、私は誰にすがりついて泣けたであろう。リーは私に、あの時のマークにしたように、精一杯の愛情を込めて接し、そして寄り添ってくれた。「ごめんな…」というと、やさしくペロペロと涙と鼻水の顔をなめて、慰めてくれた。私は泣き笑いして、そのつど立ち上がることが出来た。
      
      

Inu1049bhh 今まで、私はマークの死について多くを語らず心に秘めてきた。泳ぎがすきだったマークが、大好きだった夏を、その三回目の夏を迎えることなく、まだ風の冷たい安曇野の早春にマークは、この世を去った。私は、私の運転する車の前輪車軸の下にマークを巻き込んだのだ。あの四十六キロのマークの体の上を、私の車が「ゴトン」という振動を響かせマークを乗り越えていた。



それは、厳しい寒中の峠を越えて、早春に向かう季節を感じ始めた、ある日曜日の夕暮れだった。その日は午前中の礼拝を終えて、午後は、何かの会合で外出し、少し疲れて家に帰り、ベットでしばらく横になっていたが、すぐに夕暮れが来た。塩尻市にある国立病院付属の看護学校の学生だった長女を、夕食の時間までに、寮まで車で送らなければならなかった。私は牧師館から外に出て駐車場へ向かった。
      
      
私にしてはめずらしく、寝起きの悪い不機嫌さの中で、「今日は遅くなったな。しかし、犬たちの散歩をしてから、送るから…」。私は、長女にそう言って、犬たち四頭を大型ワゴン車に乗せ、妻と長女も無言で後部座席に乗った。この当時の車の助手席はジョンの指定席となっていた。他の三頭は後部座席に妻たちの足元も含めて、そこに乗った。車の一番後部には広い荷台もあったが、ジョンが助手席に乗っている関係もあり、他の三頭も後部座席に乗っていた。
      

西山に日が落ちかけていた。農道へ出て、犬たちだけ草道を走らせ、私たちは車に乗ったままで犬たちの後を、特に走りの遅いクロスのことを考えて、のろのろと車を走らせた。見通しのよい、長い田園コースを大きく回り終えて、街中に通じる道路近くに戻って来たところで、私は車を止めた。そして「ジョーン、クロース、りー、マーク」と私は犬たちの名前を、次々と呼んだ。思えば、それが、夕暮れの散歩の終わりに、犬たちの姿に向かって、私が四頭の愛犬たちの名前を呼ぶ最後となる瞬間だった。
      

クロスとリーはすぐに車に入って来た。後部座席の妻と長女の足元へ入り、クロスは長女の横座席へいつものように、「ヨッコラショ」と前足から乗り込みお尻を落とした。リーはいつものように、「グー」と鼻を鳴らして、運転する私の顔の真横にまで身を乗り出して、フロントガラスから、まだジョンとふざけながら田んぼの土手から飛び降り、さらに、その先に向かって走ている、マークの様子を、心配そうにのぞいていた。
      

このリーは、とても母性的な犬で、成犬になって、体も、リーより一回りも大きくなった我が子のマークにも、ヨチヨチ歩きの時のマークに接するような深い愛情を示していた。私から食パンなどを受け取ると、それをくわえて、まずマークに持って行って渡してやった。また自分の分をやることもめずらしくなかった。今も、時々空想するのだが、もし、私とリーが山中で遭難し、食料がなくなり、倒れたとしたら、そしてこのリーが、何処かで一切れのパンを手に入れたなら、きっと自分の空腹を忘れ、私の口元に運んで来るに違いないと考えて、胸が熱くなってしまうのだ。
      
      
さて、散歩の時は、いつもそうだったが、ジョンとマークは呼ばれても、一回や二回では帰って来なかった。そして、普段だと「しょーがねーなー!」と言いつつ、土手草の上に腰をおろしたり、寝転んで、暮れてゆく安曇野の自然に目をやり、その時間を楽しんでもいた。しかし、この日は、そんな心のゆとりを失っていた。私は荒々しく、スライドドアを「バターン」閉めた。そして運転席のドアも威勢よく閉め、ハンドルを握り、横で「グー」と鼻を鳴らすりーに、「うるさいなー」と、荒々しい声までかけていた。
      

ジョンは土手を飛び降り、次の田んぼの中に積み上げてある堆肥の方向へ走っていった。マークは、一度立ち止まり、車のドアが「バターン」閉まる音を聞いて、こちらに向きを変えて、ジョンの方を振り返りながら、車に戻ろうとしていた。私は、すでに運転席に座り、ややスピードを上げて草道のゆるい坂を下った。そして、私はジョンのいる右方向に目をやった。そして目を戻した時、車の前に近づいていたマークの姿が消えていた。その時ブレーキを踏んでいれば、マークを轢くことはなかった。しかし、私は踏まなかった。次の瞬間、車の前輪車軸が、ゆっくりと、スローモーションのように、少し車が浮き上がり、マークの体の上を「ガクン」と振動して乗り越していた。夢から覚めたように私は車から飛びだし、マークの名を呼んだ。そして、車の下をのぞこうとすると、マークは自力で這い出して来た。そして、私から逃げるように、驚いて妻の開けたスライドドアから、ピョコーンと車に飛び乗った。

      
しかし、車の後部座席で、マークの息がしだいに荒くなっていた。りーは、そんなマークの顔や体をなめて、落ち着かせようとした。病院に着いたが、日曜日で休診だった。あたりはもう暗くなっていた。ところが、ちょうどそこへ、医師一家が外出から帰って来た。しかし、それから三十分ほど後に、ショック性の呼吸異常で急死した。マークは、治療のためにあわただしく、周囲を行き来する獣医師たちには目をやらず、妻や長女にも目をやらず、最後まで私だけを目で追い、大きな体を横たえ、最後の瞬間には懸命にその身を起こしながら、大きな瞳孔で私を見つめ、そして息絶えた…。
      

もし、マークたちが幼稚園の子だったら、車の直ぐ前を走らせるような散歩をしただろうか。そして、車の前方に向かって走って来る子に気付きながら、ブレーキも踏まず、そのまま車を走らせただろうか。妻には、このことを何回も言われた…。このマークの死は、明らかに防げた事故だった。そのことを一番良く知っているのは私自身であった。マークが人間だったなら、過失致死罪に問われる事故だった。故意の疑いも否定できない事故だった。
      
私と妻は緑の春麦が広がる早春の田園に、散歩に出ては、残っている三頭の犬たちと歩きながら涙を流した。そして、私は一ヶ月ほど不思議な仮想ゲームのような世界に引き込まれるようになっていた。悲しみの重圧に耐え切れず、うずくまっていた自分の心が、突然立ち上がり、つぶやき始める。「もし、あの時、もっと明るい時間帯に散歩に出ていたら、そして、あの時、マークとジョンをしっかり呼んで、ジョンを助手席に、そして、マークも乗せて…」と、考える。そして、私の心は、明るさと元気を取り戻して、「そうすれば、みんながそろって…」と、口にまで出る。
      

「そうすれば…、そうか、そうすれば、みんなで、長女を送って、帰りには、あのいつものコンビニで、マークにも、好きな牛乳パンを…、」この辺まで、まるで旅行か何かの楽しい計画を考える時のような、楽しい気分に引き込まれて、次々と連想していくのだった。

そして、本当に、何とかなりそうな気分になり、心が軽くなって、救われた。そんな不思議な連想ゲームの空想が、一日の中で、何回も何回も、心の中にわきあがり。そして、「ハッ」として、現実の地獄に引き戻される。そして、「こんな事、考えたって、もうマークは死んで、いないんだ。どうしようもないんだ」とのどうしようもない絶望の現実に、もう一度連れ戻される繰り返しだった。この不思議な空想体験は、私一人だけでなく、妻にも同じように起きていた。そして、二人で話しながら、この不思議な、時間の巻き戻しに、二人で一緒に引き込まれることも、一度や二度ではなかった。
      

しかし、そんな中にあって、私や家族の悲しみを、現実の中で、やわらげてくれたのは、我が子マークを亡くした、母犬のリーであった。そしてジョンとクロスの存在であった。もし、あの時、そばにマークの母犬、リーがいなかったなら、私は誰にすがりついて泣けたであろう。リーは私に、あの事故直後のマークにしたように、精一杯の愛情を込めて接し、そして寄り添ってくれた。「ごめんな…」というと、やさしくペロペロと涙と鼻水の私の顔をなめて、慰めてくれた。私は泣き笑いして、そのつど立ち上がることが出来た。
      
      

ジョンに、マークのことを話しかけると、ジョンは困って、「クー」と鼻から声を出し、ため息をついて伏せをして腹ばいに座り込んでしまった。また、夕暮れの散歩途中で、悲しみに耐え切れず、私がふっと真後ろを振り返ると、西山の上に広がる夕焼けを受けて、私がつくる濃い影の中に、きまってクロスが、そこにいた。アニマルセラピーという言葉がある。まさに、マークを失った悲しみの中で、異常な心理状態に引き込まれていた私と妻に、現実の中で、明日に向かって歩き出す希望と力を与えてくれたのは、犬たちであった。

Inu1049aa そして、安曇野に春近しを告げる湿った大雪が降った。私が大泣きをする姿を驚きを持って見まもり、そして共に涙をながした園児たちに新しい春がやって来るのだ。私は悲しみを乗り越えて、卒園して行く園児たちに目を向けなければならなかった。「おまえたちは、川に流された時も、マークの葬式も、いっしょだった。卒園しても、必ず遊びに来てくれ、その時のみそ汁の味噌を全員で作ろう」。

      
私は、犬三頭と年長組の男の子たちをつれて、雪の残る中房川へ向かった。味噌にする大豆を、大釜で炊くためには、多量の薪が必要だった。その流木を拾いに出かけたのだ。私は、半分雪に埋もれた流木運びに、子どもたちと汗を流した。そして、現実の今に目を向け、立ち上がる力を少しづつ取り戻していた。

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第二章7「チャペルの鐘が犬を呼ぶ」

青い空に白い雲が浮かび、安曇野のJR大糸線を、二両編成の列車がガタンゴトンとのどかに走ります。もし皆さんがこの列車に乗って春の安曇野を訪れることがあり、チャペルの鐘の音を耳にし、さらに、車窓から外を見て、菜の花の咲く畑の中に続く小道を、黒のラブラドール犬が走り、時折り空を仰いでチャペルの鐘の音に耳を傾け、そしてまた懸命に走りだす姿を目にされたなら、それはきっと私の愛犬リーかもしれません。

Kaidou_01aah犬はえらい。私はこうして「犬はえらい」と書きながら、書くたびに今まで自分が歩んで来た六十年を越す歳月の中で出会った犬たちの、あの姿、この姿が次々と脳裏に浮かんできて、「犬はえらい、犬は本当にえらいなー、ありがとう、ごめんね、あの時まもってやれなくて、ゆるせ、でも忘れない、あの時のお前のこと忘れるもんか…」などと私の心は熱くなってしまうのです。

こうした犬たちは自分の飼い犬だけではなく、文字通り出会った犬たち全てである。それは、散歩途中でたまたま通りかかった道の奥に、チラリと見えただけの犬も含まれる。薄暗い路地奥で「ガチャガチャ」とつながれている鎖の音を響かせ、その短い鎖をいっぱいに引っ張って、私と犬が道を横切るのを、首を伸ばして見つめた顔半分だけが見えただけの犬も含まれるのです。

「犬はえらい」と、心から言える感動を犬たちから受けたことのある人々には、きっとこの私の気持ちを分かってもらえると思う。また、言えないといいつつ、足元にいる愛犬に、「まったく、あんた何考えてんの、さっきやったでしょう。食べることしか能がないの…」などと言っている方にも、きっと分かってもらえると私は思う。

私の幼稚園で教諭として14年間勤めてくれた女性のF先生が私に、憤慨しながら言ったことがあった。「先生、ひどいんですよ。私の近所の犬はいつも、つながれっぱなしで、散歩にも全然連れて行ってもらっていないんですよ。犬小屋は外で、その周りは犬の糞だらけ、水だって何日も新しくしてもらわないで、臭くなった雨水が入っているだけ…、全く飼い主は犬を何んだと思ってんでしょうね」。

「でもね、犬ってえらいですよねー、そんな飼い主が縁側にちょこっと出てくると、尻尾を精一杯振って喜ぶんです。でも、あの主人、そんな犬に目もくれないで、声の一つもかけないで、家の中へ入っちゃうんです。それでね、私一度言ってやろうと思ったんだけど…、そんなこと言うと、犬小屋を道から見えない家の裏に移しちゃうかもしれないから、夜、だまって家の犬と一緒に散歩させてやることにしたんです…」。犬もえらいけど、このF先生もえらいなーと私は感動した。

Inu1006ah このFさんの所に、十年ほど前に私の愛犬クロスが産んだ八頭の子犬の一頭がもらわれて行きました。彼女の長男によってアージュと命名されました。その彼女の家は広い敷地を持った農家で、花の栽培の大きなビニールハウスがいくつもあり、さらに周囲には畑もあり、大きなクリの木や柿木などの植わった庭もあり、犬の放し飼いには適した環境であり、事実基本的には犬の放し飼いをしている家でした。

この家を一度夜に訪問したことがある。「こんばんわー」と玄関のドアを開けたとたん、ものすごい事が起こった。玄関正面から二階に伸びる階段上と、右側の台所に通じる廊下の二方向から、犬たちの吠え声が一斉に始まり、その大、中、小の三種類の犬たちの三重奏の何とも頭の中がチカチカ、ピカーン、ドカーンとなるような吠え声と同時に、階段と廊下を踏み鳴らす、ガガガー、ドタドタ、ダダダーの騒音と共に、玄関口へ家を守る猛犬となって押し寄せてきたのだ。二階からの犬は階段を途中で踏み外して、ドドドドドーッと私に向かって転げ落ちてくるではないか。

その犬たち三頭が、来客が私であることに気付くのにそう時間はかからなかった。しかし、私は犬たちのことは、よーく知っていたからよかったが、他の来客者なら玄関口で腰をぬかしていたに違いない。さらに、この犬たちの騒音に混じって、F先生の「開けないーでー」の叫び声が犬たちの騒音以上に凄かった。しかし、「開けないでー」なんて家の奥から叫ばれても、もう開けてるし、そんなこと言ったって、玄関のドアぐらい普通開けますよね。押し売りのセールスマンじゃあないんだから、職場では私は上司なんですから。

さらにもう一つ、最後の仕上げは、九十歳を越す老婆が「なんざんしょうー」と杖を片手に、犬を足で払いながら暗闇からヌーっと出現するのだ。本当の話なのです。ついつい三頭の犬たちがまだ元気だった頃の、あの時のことを思い出してしまった。彼女の家は、血統書つきの犬だとか犬種名のハッキリした犬とかの肩書きには一切関係なく、真冬に捨てられて、目の瞳孔が白くなり死の寸前に河原で拾われた子犬などを中心に、どんな犬でも家族として受け入れている。なかなか出来ないことである。

Inu1012ch_1犬の放し飼いが当たり前だった、古代エジプトや日本の石器時代のようにはいかなくなった今の時代、21世紀となったことは私にも十分理解はできる。人間も犬も共に自由に野山を駆け巡り、生活を共にするためには、場所を選ばなければならない時代となった。

そして今は、安曇野のような自然豊かな地方であっても都会と同様、犬の交通事故の心配、犬に驚いて逃げる子どもなどの二次災害としての事故もある。私の犬も一、二歳の若い頃だったが、ハスキー犬のジョンと黒のラブラドール犬のクロスの二頭が雪の日に、どこかへ消えて、いくら探しても見つからず、三日も帰って来ないことがあった。保健所に保護されていたことが分かり、妻と二人で迎えに行った。

犬たちは二頭一緒に狭い檻の中で三日も耐えて、私が救いにきてくれるのをひたすら信じて待っていたのだ。傾斜のあるコンクリートの床だったから、おそらく、糞やオシッコを掃除する時は、職員が上からホースで水を放出していたのではないだろうか。ハスキー犬のジョンは私の顔を見て檻から出ると、腰をぬかしたようにしばらくは這いずるように歩き、ここは嫌だ、早く家に帰ろうと必死だったのを今も忘れない。スマン、迎えに来るのが遅くなって、私は犬たちにあやまった。

様々な思い出を共に刻んだ私たちの教会&幼稚園は、取り壊され昨年2006年の秋に新築された。古い建物は百年の歳月を越していて危険なまでに老朽化していたからです。あちこちに犬たちとの懐かしい想い出やにおいが滲み込んだ歴史ある建物は一日で、土台ごと壊され、きれいに除去されてしまった。

今度の建物はあのNHKで放映された「大草原の小さな家」に出てくるような小さな教会堂です。そして玄関の上には、これも「大草原の小さな家」で子どもたちが力を合わせて、教会堂に鐘をつけた話、「ジョーンズおじさんの鐘」から、ヒントを得て、私たちの新しい教会堂にも「子どもらの鐘」を設置しました。1800名を越える卒園生たちに募金協力を呼びかけて設置したものです。子どもたちと犬たちの未来に向かって鳴らす勇気と希望の鐘です。

P1000398ah ところが昨年のクリスマス頃から、この鐘が勇気と希望とはそんなに関係ないような時にも鳴らされるようになったのです。私の愛犬のリーが、建物が新しくなってしまい、気持ちが落ち着かないのでしょうか、前はあまりなかったのに、時々無断外出をして姿を消すようになったのです。

近所の犬好きな人々数人の家を訪問したり、知り合いの犬の様子を見にいくのが目的のことがほとんどですが、恋の季節のこともあり、私の目をぬすんで素早く、いなくなってしまうのです。そんな時、私はすぐに、この「子どもらの鐘」を「犬よ帰れの鐘」として鳴らし始めたのです。きっかけは、雪の日の礼拝前に子どもたちと鐘を鳴らしていたら、駅の方角から黒いものが吹雪の中、ピョコーン、ピョこーンと降り積もる雪の上をジャンプしながら近づいて来たのです。それは、知らない間に無断外出していたリーでした。

それからです。「カラーン(帰って)、カラーン(こーい)」と繰り返し鳴らすようになったのは。この鐘を鳴らすと、たいがい五分以内には帰ってきます。ちなみにこの重量が14kgの鐘は、フランスパッカー社製で、その説明によると昼間は半径約350メートル四方、比較的静かになる夜間は約500メートル前後まで響き渡るそうです。だから、これに犬の耳の感度を(詳しくは知らないのですが、)計算に入れると、約一キロ四方をカバー出きるのではないかと、私は考えています。鐘を付けるときは考えもしなかった事ですが。

安曇野に湿った春の雪が降りました。やがて緑が萌える春が来ます。北アルプスの上、青い空に白い雲が浮かび、安曇野のJR大糸線を、二両編成の列車がガタンゴトンとのどかに走ります。もし皆さんがこの客車に乗って春の安曇野を訪れることがあり、チャペルの鐘の音を耳にし、さらに、車窓から外を見て、菜の花の咲く畑の中に続く小道を、黒のラブラドール犬が走り、時折り空を仰いでチャペルの鐘の音に耳を傾け、そしてまた懸命に走りだす姿を目にされたなら、それはきっと私の愛犬リーかもしれません。

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第二章8「犬と音楽」

このように、犬と音楽は、私たちの幼稚園にあっては、深いつながりがあるのです。人間にも、犬にも心がある。音楽は、いのちの心から生まれるものです。人間の聴力と犬の聴力に違いはあっても、それを越えて、心が作り出す音楽は、犬にも「いのちの波長」として伝わると私は信じている。

Inu1079ah_1 今回は犬と音楽が主なテーマですが、安曇野にある私の豊科シオン幼稚園で過ごした犬たちは、園児たちの歌声や、オルガン、そしてピアノ、時にはシンセサイザーの電子音も、さらには、私がマイクを握り歌う歌声も、ごく自然に受け入れていた。

私や、周囲の子どもたち、さらに周囲の人々が不快に感じるような、音量やふざけた音を出さない限り、犬たちは、音楽を楽しむ私たちのすぐ近くに寝そべり、春風にそよぐ草原にいる時のようにくつろいで見えた。また、軽いいびきをかきながら眠っていることもあつた。

犬は、一緒に生活する人々が、心を傾けて音楽に親しむ時、同様にそれを受け入れる。たぶん、その大切な要素の一つは、人々の心の波長が、おだやかに伝わる周囲の雰囲気からだろうと思う。

Inu1077a3h_1 人々の心を癒し、心に安らぎや、希望や勇気を与えるような、歌や音楽は、犬にも単なる「騒音」として伝わることはない。もちろん、人間と犬の聴覚には、固有の特徴や能力差もあるだろう。しかし、人間の心がこもった歌声や、ピアノなどが奏でる音楽の持つ調和の取れた音は、犬たちの心にも響き、よい表情を見せる。

もし、不快であったなら、広い幼稚園の中で、自由な身であった犬たちが、歌声を響かせる部屋の中の園児たちの足元にいつも寝転んだり、ホールのピアノのすぐ前で横たわっていたりすることはなかったと思う。外には静かで快適な庭も広がっていたのだから。

私が四頭の犬たちと幼稚園で過ごした頃は、今もそうだが、安曇野の自然の中へ飛び出すアウトドア。その野外教室と「光の子賛美グループ」活動に、特に力を注いでいた時期だった。

犬たちとの野外教室。そこでの、様々な感動は、ごく自然に、いくつものオリジナルの歌を生み出しました。それらの歌は、音大などを出られた園児のお母さん方の協力を得て、楽譜になり、編曲もされ、素晴らしい奏楽で、私も園児たちも、張り切って歌い、園舎の内外で流れる歌声は決して途切れることはありませんでした。毎日、一~二時間の歌の時間は普通でした。

犬との生活から生れた犬の最初の歌は、ハスキー犬の「ジョンの歌」です。「①♪ 耳はピンピン  目はブルー   黒いメガネは  ちょっぴり    こわいけど   みんなの仲間さ    その名はハスキー犬ジョン      ②♪ 太いしっぽと    太い足   大きなお口は   ちょっぴり   こわいけど   みんなの友だち    その名はハスキー犬ジョン    ③♪  ジョンはうそつかない   わる口いわない    おすわり   伏せで    礼拝するんだよ   イエスさまと     いっしょさ   その名はハスキー犬ジョン 」。

この当時、個性の強いハスキー犬のジョンと幼子たちが一緒に生活することに、全ての人が好意的とはいかなかった。むしろ、自由に放し飼いにする私や、ジョンへの批判は強かった。しかし、そんなジョンの自由を奪ったり、排除することなく、他の章節で触れたように、園児たちは、クラス担任のF 先生の指導もあり、仲間として、友だちとして受け入れていた。

その時の思いを、私はこの歌の歌詞に込め、さらに、奏楽者が素晴らしい演奏で盛り上げ、園児たちの明るく元気な歌声が、ジョンの自由をまもったのです。

Inu1077a2h_1 もう一つ、犬たちが無断外出を繰り返した頃の「ジョンが逃げた」の歌を紹介したい。「♪ ① ジョーンが逃げた   マークがにげた   解き放たれた    自由求めて  たばこ屋さんの角曲がり  交差点を突っ切って    ポストの前で     マーキング   ルルルルルルル   ルンルンルン   一乗寺の角曲がり    タコ公園を突っ切って    さくら咲いてる小学校    一年坊主を     追いかける   ルルルルルルル    ルンルンルン  」

「 ♪ ②  マークが逃げた   リーがにげた   解き放たれた   自由求めて   車の窓開けて   町民プールへ一直線   ルルルルルルル  ルンルンルン   ラーメン屋さんの角曲がり   受付を突っ切って    流れるプールで一泳ぎ   バイトの兄ちゃん    あわててた   ルルルルルルル   ルンルンルン   」

「 ♪ ③  ジョーンは   何処だ    マークは    何処だ     夕焼けもえて   夜がきたのに    西山でカラス鳴き   熊の子ちゃんも      帰るから   そろそろ帰ろか     腹へった    よい子がお祈りしてるから   イエスさま見守る      帰り道     ボスのげんこつ    痛かった   キャイーン  」

このような歌にも、素晴らしい演奏をつけて、奏楽者のお母さん方が歌を完成してくれた。子どもたちは犬の心になりきって、生き生きと歌った。私もジョンやマークたちになりきって、ワクワクドキドキしながら感動して、いろいろな思いの中で熱くなって歌った。

Inu1078ch_1 このように、犬と音楽は、私たちの幼稚園にあっては、深いつながりがあるのです。人間にも、犬にも心がある。音楽は、いのちの心から生まれるものです。人間の聴力と犬の聴力に違いはあっても、それを越えて、心が作り出す音楽は、犬にも「いのちの波長」として伝わると私は信じている。

だから、ハスキー犬のジョンが、ラブラドール犬のクロスが、そしてマークが死んで、幼稚園から次々と姿を消した時、その都度、しばらくは、犬の歌に限らず、園で生れた数々のどの歌も、すぐには歌う気になれなかった。歌うと胸が詰まってしまって歌えなくなってしまったからだ。どの歌にも、犬たちとの想い出が重なっていたからである。

安曇野を舞台に幼子がいて、犬たちがいた。そんな四季折々の自然の中で心に響いた感動が六十数曲の歌を生んだ。その賛美歌は、清流に、白い雲に、そして風に乗った。その想い出の中に、犬たちも、みんなの仲間としていたからである。

Inu1077aah_1 最後に、あの賢かったラブラドール犬の「クロスの歌」を紹介して、この章節を終わりたい。「♪ ①クロスが走る   ビュンビュン風の中     長い耳を   パタパタなびかせて やさしい目をして    クロスが走る    ♪ ② クロスが吠える    バウバウ青空に    長いしっぽの   タクトを振りながら    よろこび感謝して   クロスが吠える     ③  ♪  クロスが泳ぐ  グングン川の中   長いくびを    ググーンと伸ばして    青空見上げて     クロスが泳ぐ  ④  ♪  クロスが眠る    グーグー樹の下で     黒い鼻をピクピク動かして     イエスさまにまもられて ジョンと昼寝する」。

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第三章1「犬の死と、天国について」

そして、「愛するものには、いつかまた必ず会える」。この言葉が持つ、もう一つの意味。それは、死後の世界での再会である。この地球上ではもう会うことは出来なくても、私が今の生涯を閉じた後に、この宇宙の何処かで、あるいは次元の異なる新しい宇宙世界で会えるということです。

P1000688shh 書店や図書館に入って、まず第一に私が行くコーナー。それは、子どもの絵本や、少年少女文庫の棚ですが、テーマが動物、犬関係のコーナーである。私が愛犬マークを事故で失い、悲しみの中にあった時、幼稚園の子どもたちが、何人も、折り紙の裏などに慰めの言葉を書いて、小さな手紙をくれた。

そして、その文字を覚えたばかりの幼子たちの短い、しかし心のこもった手紙に添えて、若い母親が一冊の、それも小さな絵本をくれたのを、受け取ったことがある。うかつにも、新会堂の建築時の引越しなどで、どこかへ、その本を紛失してしまったが、その絵本に書かれていた一文は、今も忘れてはいない。それは「愛するものには、いつかまたきっと会える」。そんな内容だったと思う。この「また会える」の言葉には二つの意味があると思う。

一つは、想い出は、生き生きと残り続けるという意味の言葉。この言葉は、私は真実だと思う。心の中に生き続ける愛犬が元気だった頃の数々の姿。安曇野や伊那高原の若葉の季節の草原を風になって走り抜けて行った姿。そして、夏の太陽の光を受ける中房川の清流で、園児たちと、一緒に泳いでいた姿など、目を閉じて振り返れば、いつでも私の心に甦ってくる。

そして、「愛するものには、いつかまた必ず会える」。この言葉が持つ、もう一つの意味。それは、死後の世界での再会である。この地球上ではもう会うことは出来なくても、私が今の生涯を閉じた後に、この宇宙の何処かで、あるいは次元の異なる新しい宇宙世界で会えるということです。

普段の眠りから目を覚ました時のように起き上がり、小鳥たちのさえずりの聞こえる朝をむかえ、外へのドアを開けると、そこには光り輝く緑の草原が広がり、近くの林の向こうから、私を見つけた、あのマークが、そしてジョンが、さらにクロスが、踊りあがりながら全力疾走で私に向かって来る…。その後ろに、幼稚園で出会ったあの黒うさぎも、そして白うさぎも…。

P1000302hh そのような再会の時を私は本気で夢見ている。だから、今でも毎日とは言わないが、こう祈っている。「天の父なる神様、ジョンやクロスやマークたち、そして、私と出会った黒うさぎや白うさぎ、多くの動物たち、どうか私が、この地上での生涯を終え、その世界へ行く日まで、清き川が流れる緑の草原に彼らを憩わせ、養って下さい。そして、この地上での私の数々の罪をお許し下さい…。この一言の願いと感謝を、私たちの主、イエスキリストの御名によって、祈ります。アーメン」と。一人の時、風呂場の浴槽などにつかりながら、私は祈っている。

当たり前のことですが、わかる人にはわかるし、わからない人にはわからないと思う。人によっては理解できない不思議な、私の思いや、祈りの言動であるかもしれません。しかし、私は本気で、このことを望んでいるのです。クリスマスに馬小屋に生まれ、三十歳ほどで十字架上で殺され、神の力を受けて復活したイエスキリスト。キリスト教では、イエスの誕生のクリスマスを、そして死に勝利した復活日のイースターを、教会暦の中で、特別な思いを持って、心に刻む日としています。

その信仰の書、聖書には次のような個所がある。「五羽の雀がニアサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、神がお忘れになるようなことはない。」(新共同約聖書ルカによる福音書12章6節)。このように記されています。これはイエスキリストの言葉として、記されています。

マタイによる福音書10章では、「その一羽さえ、あなたがたの神のお許しがなければ、地に落ちることはない。」と、同様の場面でのことが、記されています。すなわち、神様は一羽の雀にさえも、目を注いでいて下さるのです。ましてや、人間、そして犬も、当然なのです。

信じる、信じないも、また、聖書解釈の違いを主張する方がいても、それは自由です。さらに、人間だけは特別だと主張する神父や牧師もいるでしょう。しかし、私は、人間だけが特別なのは、その責任においてであると、解釈しています。ここでは、聖書の一箇所に触れての、私の思いです。

Inu1005bh 私は自分の犬たちの死に際しては、園児たちや、家族と簡素な、しかし心を込めた葬式をして、手を合わせお祈りもしました。知り合いの何頭かの犬や猫の死に際しても、電話連絡があると、聖書を持って私は出かけた。そして、告別の祈りの時を持ちました。申し出があれば、これからも出かけ、聖書に基づいたなぐさめの言葉を語り、祈りの時を持ちたいと思っている。

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第三章2「犬に来世はあるのか」

そして私は思う。人間が幸せを夢見るその「来世」を先取りして、現実のこの世において、私たちに、神の創造されたいのちの持つ尊さを、いのちを賭けて教えている存在が、犬たちや、冒頭に記した「かわいそうな象」たちではないのかと。

1069ah五月の連休中に書店に行き、絵本のコーナーへ行って私の目に入ったのが「かわいそうなぞう」(金の星社)だった。人間の起こした戦争は上野動物園の動物たちも犠牲にした。餌や水さえも断たれた、その最後の象は鼻を上げてバンザイの芸をして、飼育係の人に餌を求めながら力尽き死んだ。この絵本は、何回読んでも胸が張り裂けそうになります…。

この「犬はえらい」を書くために、私は犬関係の何冊もの本に改めて目を通した。そして、何人かの外国の愛犬家の本の目次の中に、たいがい後ろ近くに遠慮がちに触れて、書かれていたのが、「犬の死後」(天国)の問題だった。この「犬の死後」の問題にあえて触れていない本もあった。

しかし、「愛するものには、いつかまたきっと会える」との希望を持ち、その「愛するもの」の中に、多くの想い出を共にした犬たちが含まれてくるのは、当然の事です。これを希望という。

この死後の問題について、私はすでに、三章1の「犬の死と、天国について」で触れましたが、今回は、犬の立場から、発言している一冊の本「犬のディドより人間の皆様へ」(チャップマン ピッチャー著  中村凪子訳  草思社刊)を軸に、この問題に再度触れたいと思う。

家族同然に生活を共にしてきた犬や猫との死別の苦しみ、悲しみから立ち上がるのに、精神科医やカウンセラーの人々の援助を必要とする人々がいても不思議ではない。確か、少し前になるが、朝日新聞朝刊の「生活」のページでの記事だったと記憶しているが、このペットとの死別の悲しみ、葬儀、お墓などに関する現代事情をテーマに扱った記事が載っていました。

そして、ペットの死を人間と同じレベルで扱うことに、宗教的視点から、何人かのカトリックの神父やプロテスタント教会の牧師の意見も載せて、人間には「魂」があるが、犬や猫など、他の動物には「魂」がないので、人間の死とは違い、来世の天国へは行けない。との、人間中心主義が顕著に現れた考え方、人間のいのちの特別性を中心に据えた意見も紹介していました。

私は、日本キリスト教団の牧師ですが、人間が天国へ行けるのなら、犬や他の動物は、人間に先駆けて必ず天国へ行けると思っている者です。また、狼や小鳥たちにも聖書の言葉を語ったというアッシジの聖フランチェスコ(中世イタリヤ出身)の話はよく知られているところです。

キリスト教国の何人かの愛犬家の著書では、犬たちには「魂」がないから天国に行けないとの、一部の神父や牧師、また神学者などの語る間違った聖書解釈を受け入れ、悲しげに、人間とは違うからと、そこだけ、小さな声で語るように記されているのを目にしました。しかし、これに、正面から疑問と問題を投げかけているのが、チョコレート色のラブラドール犬であるディド(雌)です。

Tikyuuh このディドの気持ちを代筆したのは、チャップマン ピンチャー氏(インドのアンバラで1914年に生まれ、ロンドン大学のキングズ カレッジで動物学、植物学を修了)である。この本の裏表紙にあるディドの写真とビンチャー氏の写真が実にいい。

しかし、ここでは、この本から犬のディドだけの写真を冒頭に紹介しました。このラブラドール犬ディドが「犬の来世」について、この本で述べている意見を、ここに、ごく短く要約して、二点だけに絞って紹介したい。

ディドの意見は、こうです。①犬のディドは人間の神さまのことはよく知らない。しかし、すべてのものを創ったのは、神さまだということぐらいは知っていると語っています。そして、こう付け加えています。②さらにいわせてもらえば、人々は愛犬が重病になったり、いなくなったりすれば、神さまにお祈りする。それなのに、なぜ犬は天国行きの切符をもらえないのかなー、ふこうへいだと。

神父や牧師が、聖書の言葉をまるで数学の公式のようにとらえて、短絡的に、人間はこうだ。犬は、こうだとの結論を、解釈という憶測で語る。それも、人間の考えであり、そう語るのも自由です。しかし、確かなのは、ディドがいうように、全ての決定は最終的には、創造者なる神の心にかかっているのです。だから、私たち人間は祈るのです。

ディドの飼い主というか、人生の良きパートナーであるピンチャー氏は、自分の心の内を愛犬のディドにもらしている。犬や金魚やキジのいないような天国なんかへ行きたくないと。そして、人間が進化してきた科学的過程にも触れ、いったい、どこで、天国行きの切符となる「魂」を人間は獲得したのかと。私も同感である。ネアンデルタール人の頃なのか、あるいは、猿に近いような姿をしていた頃なのか、また、現代科学で解明されてきた人間の先祖、あのネズミのような小動物の太古の時代なのか?、と。

私は、人間が「魂」と呼ぶもを「神の愛」と言い換えることも出来ると思う。この「愛」という言葉を嫌う人は多い。人によって、捉え方が違うからだろう。日本人には、「情」といった言葉の方がピッタリ来る場合があるし、仏教的には「慈悲」といった言葉がピッタリきそうである。もっと突っ込んで記したい。犬たちや、また狼などの野生動物たちにも、来世を予感させる「救い」を私が感じるのは、「創造者なる神への畏れ」を、本能的に持ち、そのいのちを懸命に生きる姿からである。

そうした動物たちの姿を目の前にする時、人間の口にする「愛」だとか「魂」の言葉は陳腐なものに感じてしまう。しかし、聖書の語る、この「愛」は神の心と通じ合う「魂」=「愛の心」ではないだろうか。

しかし、ラブラドール犬のディドとその代弁者ピンチャー氏は、いろいろ、言いながら、「来世」については、最終的に、全能の神さまに、全てをおまかせしている。立派な謙虚な姿だな~と、人間中心主義者に向かってやや過激な反論をしてしまう私は頭が下がる。いずれにしても、人間も、犬も、確実に死ぬのだ。その後、もし、来世があったら、どんな来世であってほしいのか、人それぞれに、夢や希望を持つ自由はある。祈りは許される。

Book_1hそして私は思う。人間が幸せを夢見るその「来世」を先取りして、現実のこの世において、私たちに、神の創造されたいのちの持つ尊さを、いのちを賭けて教えている存在が、犬たちや、冒頭に記した「かわいそうな象」たちではないのかと。

そして、私たち人間の罪や悲しみも含めた、その解消(救い)の願いも含まれる中での「来世」、「天国」なのではないかと。私はNHKテレビの野生動物をテーマとしたドキュメンタリー番組が好きである。あの感動の姿を見せてくれる動物たちも決して例外ではない。そう考える時、人間だけが、天国に行けて、犬たちなど行けないとする人間中心の聖書の解釈は、私にはとうてい受け入れられるものではない。

仏教については私なりに、仏教関連の本を読み、そして今までに感じ取ってきた仏教知識の中で書き記せることは、仏教は人間だけを特別視していないように感じる。犬のディドと代弁者のピンチャーも、私と同じく、仏教に触れる機会が、あまりなかったようで、「仏教の教えについては、よくわからないが」とだけ語っている。

よく仏教徒の方や仏教関係の方から「キリスト教は人間中心主義」との批判を受けることが多い。確かに私も時として、キリスト教関連の書物を読んで、そう強く感じることがある。しかし、聖書を広く、深く読むと、こうした批判は間違っていることに気づく。今まで、私が語ったり記して来たことの繰り返しがあるかもしれないが、以下に少しまとめて記しておきたい。

キリスト教は人間中心主義か

こうした「キリスト教は人間中心主義だ」との批判は、間違った聖書の読み方、間違った理解に立った人々の言動に起因しているのであって、聖書は本来的には、むしろ、そうした人間中心的な傲慢さを、人間の罪深さを指摘している書物である。たとえば旧約聖書のコヘレトの言葉3章18節~21節には以下のように記されている。

人の子らに関しては、わたしはこうつぶやいた。神が人間を試されるのは、人間に、自分も動物にすぎないということを見極めさせるためだ、と。人間に臨むことは動物にも臨み、これも死に、あれも死ぬ。同じ霊をもっているにすぎず、人間は動物に何らまさるところはない。すべては空しく、 すべてはひとつのところに行く。すべては塵から成った。すべては塵に返る。人間の霊は上に昇り、動物の霊は地の下に降ると誰が言えよう

この旧約聖書のコヘレトの言葉の前に、私たち人間は謙虚に耳を傾け、心に深く刻む必要がある。聖書が語る神は、決して人間だけの神ではないのだ。他の動物たち、小鳥や犬や猫も、金魚にも、神の目は注がれ、一羽の雀さえも、神の許しがなければ地に落ちることはない。また野に咲く草花が、今日は生えていて、明日には炉に投げ込まれるにしても、その草花の生と死にも神の目は、心は注がれている。すなわち小鳥一羽の誕生にも、死にも、野に咲く草花の生と死にも、聖書の神は関わり、最終的な責任者なのだ。新約聖書のマタイ福音書10章29節には、イエスキリストの言葉として以下のように記されている。二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない」もう一個所旧約聖書の詩編36編7節の言葉も添えておきたい。

恵みの御業は神の山々のよう/あなたの裁きは大いなる深淵。主よ、あなたは人をも獣をも救われる。

神の心は全ての被造物にのぞみ、なおあまりあり、どんなにミニマムな世界にもくまなく入り込み、マクロなる全宇宙にも、その神の目はくまなく注がれている。今まで記してきたように、犬はもちろんのこと、どんないのちにも、驚くような宝が隠されているのです。この宝とは「神の心」、「神の霊」に通じるものであり、神から与えられた「宝」ということが出来ます。この犬たちや他の動物達の心の働きに気づくならば、仏教や聖書の教えは、より正しく、深く理解できるようになるに違いない。私はそう思う。

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第三章3「アニマルセラピー」

この犬は阪神大震災の中で、前の飼い主たちと別れざるを得なかった。そして、この犬は関西から遠く離れた北アルプスの麓に広がる安曇野の地に住む新しい飼い主に引き取られた。こうした悲しみを体験したこの犬は、安曇野の夕暮れや明け方に、望郷の思いなんかより、もつと大切に思えるフランス犬文学の本を開き、辞書を持って読むことに集中し、心に湧きあがった望郷の気持ちをふきはらう…。といつたことは当然出来なかった。いのちあるものは、その基本のDNA部分は、犬であっても人間であっても変わりはないのだ。と私は思う。哲学や宗教や文学を志し、深めようとする者は、もっと素直に犬たちに学ぶべきと思う。

P1010214ah1h_1c ノーベル文学賞作家の大江健三郎氏が五十代の時に東京女子大学で「信仰を持たない者の祈り」と題して一時間ほどの講演をしている。そこで彼は何度も繰り返し「魂の救い」という言葉を使って語っている。この大江氏が語る「魂の救い」とは、「人生とは何か」、「生きるとは何か」、「いのちとは何か」、そのような人間存在への問いの中で、揺れ動く「心の救い」のことであろうと思う。 この「魂の救い」と、大江氏が語ったものを、犬たちは持っているだろうか。私は犬だけに限らず、いのちある存在は全てに本能的に備わっていると思っている。何も人間だけが特別な「魂」を持った価値ある存在なのではない。全てのいのちが価値ある存在なのだと私は思う。サルトルや大江氏のような哲学的心の揺れは犬にだってある。

少し本題からはずれるかもしれないが記したい。それはやはり大江氏が、この東京女子大での講演の翌年に、「時代と小説」とのテーマで語った記録テープで聴いたものだが、その中で彼は語っている。故郷を離れ東京に出て、フランス文学を学び始めた頃、毎朝目が覚めると、すぐに布団の中から手を伸ばして、サルトルの著書を取り、もう一方の手には辞書を持って読み始めたと言う。夕暮れなどに一人になった時もそうだったと語っている。 それは、一人で何もしないでいると、「故郷の母親に会いたくなって、とてもさびしい気持ちになってしまうからで、つまらない、子どものような気持ちなってしまうからで…」と、たぶん大江氏の本心が自然に発露した、てれくささもあっての言葉だったと思う。私はとても、この部分の語りに感動しました。

しかし、いじわるくこの部分だけを分析すると、「子どものように、故郷や母親を慕う心」は、つまらないことなのか。そして、そのような「子ども心」は、つまらない、価値のないものなのかと、批判出来る。もちろん、これは有名人の一部分の発言を取り上げたいじわるな、無意味な批判であることに間違いない。しかし、気になる言葉として、私は聞いてしまった。

私は、こうした故郷や、母親が恋しくなった時の、フランス文学を学ぶ学生であった時の大江氏に、とても親しみを感じる。そして、このような日常性の中での「魂」の揺れ動きは、犬にもあるのだ。阪神大震災で、住む場所と飼い主を失った犬たちを救うボランティアグループの働きによって、安曇野にも一頭の犬が、ある家庭にもらわれて来た。そして、その犬は一年を過ぎてもなお、縁側から夕暮れになると、自分の生まれ育った故郷の西の空を見つめ、ふっともの思いにふける瞬間を見せるという。

この犬は阪神大震災の中で、前の飼い主たちと別れざるを得なかった。そして、この犬は関西から遠く離れた北アルプスの麓に広がる安曇野の地に住む新しい飼い主に引き取られた。こうした悲しみを体験したこの犬は、安曇野の夕暮れや明け方に、望郷の思いなんかより、もつと大切に思えるフランス犬文学の本を開き、辞書を持って読むことに集中し、心に湧きあがった望郷の気持ちをふきはらう…。といつたことは当然出来なかった。いのちあるものは、その基本のDNA部分は、犬であっても人間であっても変わりはないのだ。と私は思う。哲学や宗教や文学を志し、深めようとする者は、もっと素直に犬たちに学ぶべきと思う。

還暦から、二つ三つとさらに齢を重ねた今、私の隣りにいつもいてくれるのは、犬のリー、一頭だけになってしまった。しかし、リーはいつも私の隣りにいてくれる。そんな日常について、少し触れたいと思う。 このリーは今年で十一歳になる黒のラブラドールレトリバー犬の雌である。すでに、他の章節で触れたが、子犬の時に私の手元を離れて、もらわれて行き、何ヶ月かして、また戻って来た犬である。

P1010364ah1hg 縁あって、私と共に、最近はややのんびりペースで日々を過ごしている。 朝、私が和室の戸を開けてリビングルームへ出ると、リーは食堂隅の居場所から、すでに私が寝床から起き上がったのを感知していて、リビングの中央に出て来て、パジャマ姿の私を、押し倒したりしないように気をつかいながら、ゆっくりと、前両足を伸ばして立ち上がる。そのリーの両前足の付け根の辺りを私は軽く両手で支えて、「おはよう」と声をかける。 リーは、私の胸に両前足を押し付けて、グーっと伸び(ストレッチ)をして、軽く遠慮がちにペロペロと私の手をなめる。

これが私とリーの平均的朝の挨拶である。妻がいない時は、私の和室の戸口まで来て、そこで待つこともある。私が呼べば遠慮なく、畳の部屋へも入って来る。 そして、私が着替えて、顔を洗うなどの一連の動作を注意深く見ながら、今日のボスの生活スケジュールは、今までのサンプルのどれに当たるかを読んでいる。まるで有能な美人秘書そのものである。その観察眼は、私の外面的なものから、私の内面の心の動きにも及ぶ。その日の気分で、私が妻にかける声が荒々しかったり、険悪になると、私の心をなだめに、起き上がって、「まあ、まあ、」と言った雰囲気で私に近づいて来る。

これらのことは、多くの愛犬家たちが、私同様に経験していることであり、決してめずらしいことではないと思う。しかし、人間中心に作られている家の中で、犬には出来ることと出来ないことが当然あるし、やってはならないことも犬は知っている。

そして、犬の出来ないことで、人間の手をわずらわせて叱られることがあると、首をうなだれて悲しそうになる。胃の調子を崩し、ひんぱんに外へ出たくなる時、ドアの前で「クークー」と鼻をならす。妻に「どうしたの、さっき外へ行ったばかりでしょう」と強く言われる時などが、そうである。 このリーの母犬のクロスに、こんなことがあった。クロスはとても賢くて、忍耐強い犬だった。

夜中にトイレに行きたくなり、ドアの前に行き小さな声で、私たち家族に知らせたが、その夜は、幼稚園の何かの行事のために、家族はみんなが疲れて、早めに眠りについていた。クロスが何回か、ドアを開けてほしいと訴える合図に、私は「うるさいなー」と言ってしまった。 それは、「クークー」とうるさいのは、ハスキー犬のジョンだと勘違いしていたからだった。しかし、私は、しばらくして起き上がり、外への出口であるドアのところまでヨタヨタと寝ぼけまなこで歩いて行った。

すると、そこには首をうなだれて、オシッコを我慢している、あわれな姿のクロスがいた。私は「ごめん、ごめん」と言ってすぐに外へ出してやった。 でも、そのクロスもジョンも賢くて、えらいなーと私を唸らせる出来事があった。それは、クロスが、自分で出来ないことを、人間に知らせて、協力を求めるとき、クロス自身が直接求めないで、強烈なアピールを得意とするジョンにたのむやり方だった。クロスとジョンの学習だった。 それは、クロスが「ガサゴソ」と動いて、異常事態をジョンに知らせ、それに気付いたジョンが、あの狼声で「ウオォォォォー」と、クロスの替りに騒ぐやり方だった。

だから、私はジョンをただ怒るのをやめて、クロスの様子にも目をやるようになった。それは私の学習であった。そこで、私が怒鳴り声をあげると、クロスまでも萎縮して、何かの当然の権利としての要求を我慢してしまうこともあり得たからだ。 このクロスに、もう一つの想い出がある。それは、まだ子犬に近かった頃、テーブルの上のパンを、誰もいなかったので盗み、それを自分の寝ているソファーの背もたれとの隙間に鼻と前足で、押し込んで隠している、その現場を、私と妻に見つかったことがあった。

その時のクロスのうなだれた姿を、今も私は鮮明に覚えている。そんな意味で、私はどちらかと言うと、ラブラドール犬の飼い主としてはふさわしくなく、殴っても怒鳴っても、むしろ「ウォォォォぉー」と、文句を言って立ち向かってくるハスキー犬の方がつきやいやすいと感じている。 さらにもう一つ、このクロスの姿で忘れられない思い出は、確かジョンが食欲がなくなり体調を崩していた時、誰かからもらったドッグフードの缶詰を、幼稚園の砂場の前でジョンだけにこっそり、やっていた時、たまたま事務所のドアが半開きになっていて、そこからクロスに見られてしまった時だった。 私と目の会ったクロスは、見てはいけないものを見てしまったと、すばやくドアの向こうに顔を隠してしまったのだった。

私はあわてて「クロース」と呼んだが、出てはこなかった。 そんな母犬から生れた、リーだが、何処のどの犬がリーの父犬かわからないのですが、おそらく、その父犬はラブラドール犬ではなく、ごく普通の犬だったと思うが、その犬のDNAも引き継いで、よく吠え声も出すし、要求も強いし、逞しい。 そんなリーと私の日常は、いつも行動を共にしている。

考えてみると、いつも私の周りには子どもたちがいて犬たちがいた。そんな職場というか、職柄の中でこの歳まで生きてきたのが、私の生涯であったことに気付く。 一般の会社勤めの人が犬を飼っても、私のようには行かなかっただろうし、それが当然である。「いつもハスキー犬のリュウノスケが隣にいてくれた」と、その著書「犬との別れ」で書いている芥川賞作家の三田誠広氏も、作家という職業人になってからハスキー犬を飼っている。

また「犬のディドより人間の皆様へ」の著者チャップマン ビンチャー氏も、高齢になってからの生活は、いつもそばにディドがいて、四六時中共に生活をしていた。 私は最近、犬や幼稚園の子どもたちと一緒に行けないような所へは、無理して行かないようになった。そして、犬や子どもたちと行けないような所には、行く意味や価値もないと思うようになっている。 しかし、時には、友人たちと好きな生ビールを飲みに料理屋へ出かけたり、どうしてもリーを連れて行けない場所へ出かける必要に迫られることもあるが、そんな時は、リーに、言葉が通じても、通じなくても、真剣に手短に説明して、片手を広げて、「待て、待っていろ、必ず戻るから」と、リーに言う。

最初は、そんな私の言動を見て笑っていた妻や家族だったが、もう今は笑ったりはしない。ちゃーんと、リーは私を信じて待つことを学んだのだ。ある意味、妻よりも私を信頼して待つことが出来るのだ。

P1010119ahd このリーと子どもたちと毎月二回、行く所がある。安曇野にある二箇所の大きな老人福祉施設である。ハスキー犬のジョンを連れて行った時は、高齢者のみなさんを、その狼の風貌で驚かせ、また喜ばせもしたのですが、途中から姿を消してしまい、施設の台所に侵入して、迷惑をかけてしまったが、ラブラドール犬のクロスやリーは、そんなことはなかった。 安曇野のような地方においても、アニマルセラピーの持つ意味が理解され、犬と子どもたちと、私が一緒に行けるところは、こうした福祉施設、そして安曇野日赤病院や各公共施設へと、広がりつつある。犬と子どもたちが一緒に、安心して行ける所。理解し、受け入れててもらえる所を増やすこと。そのような人間社会の実現は、とても大切な課題の一つだと私は考えている。

注)大江健三郎氏の講演記録内容部分は、「時代と小説」…新潮1000号記念講演…と「信仰を持たない者の祈り」(新潮カセット)で聴いたものです。 <文中のDNAの記述は、この地球上のあらゆる「いのち」あるもの、みみずも、草木も、犬も人間も、同じ文字(DNA)で記録されているとの科学的発見から。

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第三章4「犬と幼子、心の共通点」

この心の教育こそが、幼児教育の基本だと思う。この心の教育を、もっと具体的に言えば、生まれて来た喜び、生まれてくれた喜び、出会えた喜び、いっしょに生きていることの喜び、愛情に包まれて生きる喜び。心が触れ合うことの喜び…。そんな心の感動を、共に味わうことではないだろうか。これらは、視覚的には、犬の場合、子犬たちが、母犬の周りで、コロコロと躍動する姿を見れば、もう説明はいらないでしょう。

Inu1080ah私は安曇野にある幼稚園で、幼子たちと一緒に生活して二十六年になる。三歳から五歳、六歳になる幼子たちと、安曇野の四季折々の自然の中へ飛び出して、多くの幼子たちと、感動の日々を過ごして来た。もちろん、犬たちも一緒であった。そんな中で感じた私と幼子や犬たちとの関係は、人間と自然との関係にも似て、言葉よりも、心に響いてくる、もっと確かな、いのちの波長の共鳴のようなものである。

幼子と犬には、確かな共通点がある。それは、大人のような言語による理解力にたよらない、感性による判断力、直観力で、十ニ分に、お互いを理解し合うための心と表現力を十分持っているということである。だから、大人は、幼子や犬たちに対して、真剣に、そして、自然の草花に向き合うような純真な心で、向き合うならば、こちらの心は十二分に伝わるし、相手の心も言葉以上に伝わってくる。

以上のことは、私が育った頃の昔ならば、「母と子のように」と言えば、誰にでも理解できた。しかし、親が子を殺し、子が親を殺す事件が、あたりまえのように、次から次へと頻発する現代にあっては、通用しない面も出てきた。

文明の発展は、物の発展となり、いつしか物だけが溢れ、そして、物を作り出す科学技術があらゆる分野を支配しようとしているかに見える。心を持ったいのちある人間を含む全ての動物を、何かの目的のために、機械のごとくにコントロールしようとする動きも、その一つである。

P1010575ah そんな物づくりの最先端を走ったSONY(ソニー)の創設者井深大氏が、もうだいぶ前になるが、「物から、心の育つ時代へ」と題して、朝日新聞の「こころ」のページに、自分が本気で求めていることとして、幼児教育について記している。(朝日新聞「こころ」のページ編「自分と出会う75章」)。

その井深大氏の語る幼児教育の二つの基本ポイントを私なりの理解で、要約させてもらうと、①遺伝の影響は克服できる。大切なのは環境である。②新生児はすでに、母親のあたたかい愛情を受け止めるための「心の受け皿」を持って誕生してくる。ということになるだろうか。

井深大氏のような、物づくりで世界の最先端を走った方が、最後のライフワークとして、その目標を人間の心に向け、特に人間の心が発芽して成長する幼児期の、心の教育の大切さを、世界中の人々に理解してもらおうと努力されたことは、安曇野にある小さな教会の小さな幼稚園に身を置き、幼児教育に関わっている私にとっても、大きな励みとなってい.ます。

井深氏は、先に紹介した「物から心の育つ時代へ」の文中で、「幼児教育というと、世の中ではすぐ天才児、英才児、そして知的教育にだけ結びつけてしまうが、私の考えはそれとは全く異なっていて、良い頭脳を育てるのは二の次のこと、まず何よりも温かい心を持った人をあまり苦労せずに育てようということである」と、記しています。ここで「苦労せずに」と語っているのは、おそらく、いのちといのちの自然な触れ合いの中で無理なくという意味であろう。ツバメの子育てはもう2000年以上も昔から変わらず自然に繰り返されてきている。人間だけが、ここ何十年間で急激に変化している。

私も思う。井深氏が言われたように、幼子も犬も「心の受け皿」を持って生まれてくる。その心の受け皿に、何を与えるか、どのように与えるか。「心の発芽と成長」は、ここに起こるのだと。

この心の教育こそが、幼児教育の基本だと思う。この心の教育を、もっと具体的に言えば、生まれて来た喜び、生まれてくれた喜び、出会えた喜び、いっしょに生きていることの喜び、愛情に包まれて生きる喜び。心が触れ合うことの喜び…。そんな心の感動を、共に味わうことではないだろうか。これらは、視覚的には、犬の場合、子犬たちが、母犬の周りで、コロコロと躍動する姿を見れば、もう説明はいらないでしょう。

この「心の教育」に付随してくる、知的教育は、心の教育から伸びる枝葉の部分と言えます。この枝葉の部分は、心の教育が豊かであってこそ、この知的教育は、喜びの中で開花します。これも、犬の場合を例に、盲導犬の訓練(知的教育)で説明すると、心の教育と知的教育の関連が、とても分かりやすい。

518ze2j7ajl_ss500_11fh_1 NHKテレビの、プロフェッショナル・仕事の流儀「育てるためには、ほめ続けろ・盲導犬訓練士・多和田悟」で、紹介された訓練士多和田氏と教育(訓練)を受ける犬たちの姿である。映画やドラマ化もされた盲導犬・クイールを始め、これまでに200頭以上の盲導犬を育ててきた多和田悟氏。 国際盲導犬連盟が認めた世界で数えるほどしかいない査察員の一人です。(写真は文芸春秋社刊の本の表紙より)。

彼がこの道に進んだのは、盲導犬を連れた牧師との出会いだった。その牧師と犬との関係は、共に喜びを持って生きるパートナーであり、家族の一員としての姿だった。やがて、多和田氏は、犬の訓練士の職につき、彼の元で厳しく訓練した犬を、「これで、よし」と卒業させた。そして、必要としている人に、問題なく引き渡した。ところが、「彼の犬は使えない」と、言われることとなる。犬の知的教育に失敗したのです。

彼の訓練は、犬の歩き方一つにも厳しいものだった。確かに、彼の元では、完璧なまでに盲導犬としての職務を果たすのだが、彼がいない所では、彼の育てた盲導犬は、使いものにならなかったのです。

そんな中で、多和田氏は、「犬は、人間の補助具ではない。喜びを持って共に生きるパートナーなんだ」と、盲導犬訓練の先進国イギリスへの留学で気付かされる。そして、彼は見事に立ち上がり、この道の世界的訓練士となって行く。

この「ほめて、共に喜ぶ」訓練の秘訣。それを、私なりの考えで、一言でいえば「犬の心の教育」に目を向けたのではないだろうか。彼は、「プロフェッショナル」の番組の中で、「プロとは、多和田さんにとって、何だと思いますか?」と、聞かれて、「ぶれてもいい。帰れるところを持っていれば」と答えている。

彼の言う、犬の教育の原点。それは、彼が、この道を志した時の原点。そう、盲導犬を連れた牧師との出会いだった。その目の見えない牧師と犬の姿だった。共に生きる喜びの姿だったのだ。人生を豊かにしてくれるパートナーとしての犬。この原点に帰った多和田氏は、犬の心の教育に主眼を向けたのだと思う。そして、その枝葉である知的教育が、その「心の教育」の土台の上に、見事に開花して行ったのだと、私はテレビを観ながら強く感じたのです。

P1010557ahh_1 安曇野の自然の中で、私と幼子たちが日々出会う様々な感動。共に生きる喜び。そして、そこに、いのち輝かせ、私たちの人生を豊かにしてくれる犬たちがいる。ここが、一人の牧師として、幼児教育者として、ぶれまくりながらも、絶えず、私が帰るところです。私は、心から思う。幼子たちはえらい。そして犬たちは実にえらいと。

2007/6/30

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 おわりに 「リーの死 そして風を受け」

105_0561ch 幼稚園の子どもたちと、安曇野の四季折々の風に吹かれて、日々を過ごした私の飼い犬四頭の内で最後まで残っていたラブラドール犬のリーとの悲しい別れがやって来たのは2008年の夏休みを目の前にした六月の上旬だった。

十二歳になっていたリーは、園児たちとの犀川の散歩や田園の田舎道の散歩では前半は元気だったが、帰り道では三歳児の幼子たちからも遅れて歩くようになっていた。私はそんなリーのために子どもたちの一番最後をゆっくりと歩いた。この頃のリーは、このリーの母犬だったクロスの体型に似て、やや太り気味となり、顔も若い頃のリーの顔とは異なり間違えるほどに母犬クロスに似た顔立ちになっていた。

このリーと私の心には、共通の過去の日々の記憶が刻まれていました。あの野性的なハスキー犬のジョン、そして、賢くてやさしかったクロス、さらにはリーがとても可愛がったリーの子犬の、あの46キロにまで大きく成長して、私のミスで二歳の若さで三回目の大好きな夏を迎えることなく死んでしまったマーク。こうした過去の犬たちとの様々な思い出を、私と共有する最後の犬となる私にとって本当に大切な相棒のリーだったのに…。

私の心にはポッカリと空白な部分が出来て、そこを虚しいだけの風が吹きぬけるようになった。この私の心の空洞に爽やかな思い出の日々の風が吹き渡るような日は、もう永久に訪れることはないとさえ思えた。私と一緒にジョンやクロスやマークの想い出を語る相棒だったリーを失ったことは、それほどまでに大きな喪失感を、私にもたらした。

このリーは、自分の死期の近いのを感じていたようである。五月に行われた幼稚園の春の遠足では、ジョンもクロスもマークも可愛がってもらった愛犬家のIさんと一緒に歩いていた。そして、同じ五月の福祉施設でのアニマルセラピーでもIさんと一緒だった。そのリーにとって最後となった福祉施設でのアニマルセラピー活動でも、後半は疲れて床に伏せている時間が長かった。これを終えた直後に呼吸に急激な異変が起きた。

さらに、この五月の末にリーは、近所の顔見知りの、親しんでもらった人々の家を訪問して、今から思うと最後のお別れの挨拶回りをしていたのだと気づかされる。

このリーが最後の息を引き取ったのは伊那高原でのことだった。二回の動物病院への通院をして、三回目の動物病院の診察台の上で、私と妻に抱きしめられて息を引き取った。最後には歩けなくなり、それでもリンビングの自分の居場所でのオシッコを我慢して、私と妻が外へ運び出したところで、オシッコを寝たままでした。そして、悲しそうな目で私を見上げた。覚悟はしていたが、悲しく絶望的な思いにかられた。我が家の庭の北側に大きなモミの木が二本立つ、その根元にはすでにジョンやクロスが葬られていた。

105_0570h その少し横に私は涙と鼻水と汗でグショグショになって大きな穴を掘った。息切れがしてふらふらした。そして思った。このリーが私の生涯で最後の犬だと。もう私は六十四歳になろうとしていた。自分の手でこうして穴を掘り、40キロを越す大型犬を運ぶのは、もう今が限界だと感じたからだ。そう思ってまた泣けた。そんな私のそれからの日々は、虚しいものだった。犬の姿が消えた我が家の草原状態の庭を眺めるのは虚しかった。

そこで、その庭の一部の草を取りはぶいて畑を作りトマトやキュウリ、茄子などのミニ菜園にした。また相棒のいなくなった寂しい散歩では、望遠付きのやや高級なカメラを購入して、様々な素晴らしい野の草花にレンズを向けてシャッターを切った。様々な野鳥の写真も撮った。それらをパソコンに取り込み、自分のブログのページに載せて、いろいろと文章も書いた。

しかし、やはり虚しかった。そんな時、私はNHKラジオの深夜便で、「琵琶湖周航の歌」の出来るまでの歴史的背景を三十年以上に渡って取材して、一冊の本にされた方の話を聞いた。そして、「琵琶湖」という言葉に私は反応していた。その琵琶湖は、この前年の2005年の夏に、私はリーと出かけて一緒に泳いだ処だった。

その琵琶湖で私と高校三年の次男がヨットに乗って沖へ向かおうとすると、リーは妻の制止を振り切って私のヨットを追って岸から湖面に飛び込み、私のヨットに向かって泳いだりもした。だから、翌年の夏はリーの犬用ライフジャケットをインターネットで探して、今度はリーと一緒にヨットに乗ろうと考えて、いろいろと調べ始めた矢先のリーの死だった。

カメラを持って散歩しても、畑を始めても、幼稚園児たちと安曇野の自然の中へ野外教室に飛び出しても、犬が全て消えた日々は、本当に虚しかった。かといつて犬を新たに飼う勇気も消えうせていた。自分でもリーの死によって私は一気に老けたな~と感じていた。そんな私の姿を見て、妻は時々小さな声で、「もう少し、小さな犬を飼ってみたら…」と言った。しかし、私は黙っていた。飼う気にはなれなかった。

犬たちがくれた夏のプレゼント

2178fakk そこで私が思いついたのは、こうして私の周りから犬が全て消えた、この夏は、犬たちがいない時だからこそ、今までには出来なかったことにチャレンジしてみよう。それは、琵琶湖で貸しヨットを借りてただ遊びでヨット乗りを楽しむのではなく、あの「琵琶湖周航の歌」にあるように、あの思い出の琵琶湖を、どのくらいかかるかわからないが、ヨットで周航してみよう。私はそう思うと何だか、勇気が湧いてきた。

ヨットは遊び程度の経験しかなかった私だったが、別に太平洋を渡るわけではない。もし転覆したら泳ぎの得意な私は、ヨットは捨てて近くの岸へ向かって泳げばなんとかなる。そんな思いで、とにかく決行することにした。こうして犬のいなくなった夏の目標が出来た。そして、これは独りになった私への、犬たちからのプレゼントだと感じて、自分に言い聞かせた。

そして、私は四日がかりで、急遽購入した自分の小型ヨットで約100キロの琵琶湖周航をやりとげていた。天国の犬たちから、私に贈られた励ましの夏となった。

私は思った。四頭の犬たちとの想い出に一区切りがついたと。そして、犬たちのいない独りになってしまった自分だが、私なりに生きてゆこうと決意していた。「ありがとうリー!、風に向かって走った犬たち、そして、おまえたちは、みんな、俺の周りから消えてしまつたが、俺はまだ、もう少し、この世で元気に頑張ってみるよ。またいつか、必ず何処かで会おう、それまで、俺のことを忘れずに待っていてくれ」。私はそう、つぶやいていた。すると、風に寝転んで、俺を見つめていた犬たちが、ゆっくりと立ち上がり、私に向かって一斉に別れの吠え声を響かせるのを感じた。そして、私の犬たちは、新しい風に向かって走り去ってゆくのだった。

犬たちと一緒に受けた幾つもの季節の風を、これからは、私独りで迎えることになる。まあ、淋しいけれどヨットのように進んでみるか…。時には風にねころびながら、のんびりとな…。しかし、おまえたちはみんな、そのいのちの中に、素晴らしい宝を隠し持っていたんだなー。まだまだ、それに気づいている人は少ないかもしれないなー。今は天国の風に向かって走り、その風にねころんでいる君たちへ、心からの感謝を持ってこの小さな一冊を贈りたい。私なりに記してみたけれど、何処かの誰かの心に、君たちのいのちの輝きが届いたなら、この私と一緒に喜んでくれるよなー。

2009年 7月5日

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