私は思う。それは、「来世」が持つ価値を先取りして、現実のこの世において、私たちに、神が創造された「いのちの持つ尊さ」を、いのちを賭けて教えている存在が、犬たちや、冒頭に記した「かわいそうな象」たちではないのかと。
犬たちなどが持つ、いのちの輝きの素晴らしさ。こうしたいのちこそ、実はこの宇宙が目指す最終目標、最終目的なのではないだろうか。そうでなかったら、この宇宙のどんな物質もエネルギーも、ただのゴミでしかない。ただの137億年の無駄時間、無駄宇宙、無駄物理法則、無駄進化でしかない。私はそう思う。
五月の連休中に書店に行き、絵本のコーナーへ行って私の目に入ったのが「かわいそうなぞう」(金の星社)だった。人間の起こした戦争は上野動物園の動物たちも犠牲にした。餌や水さえも断たれた、その最後の象は鼻を上げてバンザイの芸をして、飼育係の人に餌を求めながら力尽き死んだ。この絵本は、何回読んでも胸が張り裂けそうになります…。
この「犬はえらい」を書くために、私はキリスト教国で出版された犬関係の何冊もの本に改めて目を通した。そして、外国の愛犬家たちによって書かれた本で、この「犬の死後」の問題にはあえて触れていない本もあったが、目次を調べると、たいがいの本は後ろ近くで遠慮がちに小さく触れて、書かれている。
しかし、「愛するものには、いつかまたきっと会える」との希望を持ち、その「愛するもの」の中に、多くの想い出を共にした犬たちが含まれてくるのは、当然の事です。これを希望という。
この死後の問題について、私はすでに、三章1の「犬の死と、天国について」で触れましたが、今回は、犬の立場から、発言している一冊の本「犬のディドより人間の皆様へ」(チャップマン ピッチャー著 中村凪子訳 草思社刊)を軸に、この問題に再度触れたいと思う。
家族同然に生活を共にしてきた犬や猫との死別の苦しみ、悲しみから立ち上がるのに、精神科医やカウンセラーの人々の援助を必要とする人々がいても不思議ではない。確か、少し前になるが、朝日新聞朝刊の「生活」のページでの記事だったと記憶しているが、このペットとの死別の悲しみ、葬儀、お墓などに関する現代事情をテーマに扱った記事が載っていました。
そして、ペットの死を人間と同じレベルで扱うことに、宗教的視点から、何人かのカトリックの神父やプロテスタント教会の牧師の意見も載せて、人間には「魂」があるが、犬や猫など、他の動物には「魂」がないので、人間の死とは違い、来世の天国へは行けない。との、人間中心主義が顕著に現れた考え方、人間のいのちの特別性を中心に据えた意見も紹介していました。
私は、日本キリスト教団の牧師ですが、人間が天国へ行けるのなら、犬や他の動物は、人間に先駆けて必ず天国へ行けると思っている者です。また、狼や小鳥たちにも聖書の言葉を語ったというアッシジの聖フランチェスコ(中世イタリヤ出身)の話はよく知られているところです。
キリスト教国の何人かの愛犬家の著書では、犬たちには「魂」がないから天国に行けないとの、一部の神父や牧師、また神学者などの語る間違った聖書解釈を受け入れ、悲しげに、人間とは違うからと、そこだけ、小さな声で語るように記されているのを目にしました。しかし、これに、正面から疑問と問題を投げかけているのが、チョコレート色のラブラドール犬であるディド(雌)です。
このディドの気持ちを代筆したのは、チャップマン ピンチャー氏(インドのアンバラで1914年に生まれ、ロンドン大学のキングズ カレッジで動物学、植物学を修了)である。この本の裏表紙にあるディドの写真とビンチャー氏の写真が実にいい。
しかし、ここでは、この本から犬のディドだけの写真を冒頭に紹介しました。このラブラドール犬ディドが「犬の来世」について、この本で述べている意見を、ここに、ごく短く要約して、二点だけに絞って紹介したい。
ディドの意見は、こうです。①犬のディドは人間の神さまのことはよく知らない。しかし、すべてのものを創ったのは、神さまだということぐらいは知っていると語っています。そして、こう付け加えています。②さらにいわせてもらえば、人々は愛犬が重病になったり、いなくなったりすれば、神さまにお祈りする。それなのに、なぜ犬は天国行きの切符をもらえないのかなー、ふこうへいだと。
神父や牧師が、聖書の言葉をまるで数学の公式のようにとらえて、短絡的に、人間はこうだ。犬は、こうだとの結論を、解釈という憶測で語る。それも、人間の考えであり、そう語るのも自由です。しかし、確かなのは、ディドがいうように、全ての決定は最終的には、創造者なる神の心にかかっているのです。だから、私たち人間は祈るのです。
ディドの飼い主というか、人生の良きパートナーであるチャップマン ピンチャー氏は、自分の心の内を愛犬のディドにもらしている。犬や金魚やキジのいないような天国なんかへ行きたくないと。そして、人間が進化してきた歴史過程に触れ、いったい、どこで、天国行きの切符となる「魂」を人間だけが獲得したのかと。実に不公平な話ではないかと。
私も同感である。そもそもその「魂」なる切符を手にしたのは、ネアンデルタール人の頃なのか、ホモサピエンスの時代なのか、あるいは、もっと以前の猿に近い姿をしていた頃なのか、二本足で歩き始めた頃か、また、もっと遡って、一億六千万年もの長期に渡って地球上を支配していた恐竜たちの時代に、私たち人間の先祖は、ネズミのような小動物だったが、そのネズミ時代にすでにその切符」を手に入れていたというのか?。それだったら、キリストも仏も必要ないではないか。まったくばかげた話であることに、誰しも気づくことになる。
ここで、このチャップマンビンチャー氏の「いったい人間だけが、どこで「魂」なるものを手に入れ、天国行きの切符を手に入れたのか」の言葉をもう少し深めて考えてみたい。
最新の宇宙物理学では、ビックバンから宇宙の創成が始まり、137億年を経てもなお、この宇宙は今も膨張を続けている。
私たちの体を構成している物質も含め、地球も太陽も、他の銀河も星も、宇宙にあるその全ての物質はバラバラにすれば素粒子によって成り立っていることが分かる。そして、我々の「心」も犬たちの「心」も同じ素材で出来た「脳」の働きによるものである。なのに、いったい宇宙の137億年の歴史の中で、いつ人間だけが特別に「魂」を獲得したというのか。
聖書は科学の書ではない。物理学の書でもない。生物の持つDNAのことだって、E = m c2:このエネルギーと質量の等価を示すアインシュタインの関係式だって聖書には書いてない。こうした科学や物理学を無視して、知らずして一部の牧師や神父、そして神学者たちが、聖書の言葉だけを机の上でいじくりまわして、人間だけは特別なとどいったところで、それらは何ら根拠も説得力も持たない空論である。宗教も科学も神から与えられた知恵なのだ。補完的な関係にあることを忘れてはならない。
そうでなければ、科学的真理である天動説を唱えたコペルニクスを、聖書を持ち出して弾圧した宗教者たちと同じ愚かさを繰り返すことになる。
しかし、聖書は科学の書、物理学の書ではないが神の言葉を内包する書である。地の塵で体を形造り、そこに命の息を吹き入れたとする旧約聖書の創造神話の個所や、さらには新約聖書においては、特別な系図から出て来た人間だと、思いあがる人々に、何を言っているのだ、神は目の前の石ころからさえも、あの信仰の父と呼ばれたアブラハムの子孫を造れるのだ。との洗礼者ヨハネの言葉がある。この言葉の前に人間は謙虚でなければならない。石より優れている、犬より優れているなどと、思いあがってはいけないのだ。
さて、本論に戻ろう。私たちの「体」も「心」も、宇宙の中に散らばった素材によって成り立っている。銀河が生まれ、星が生まれ、超新星爆発も起こり、そうした宇宙の進化の中で生まれたのだ。その生成の過程はやがて物理学が全てを説明し尽くす時が来るかもしれない。原子核の周りを回る電子という素粒子。そうしたミクロの世界の素材によって出来ている生命を持た私たちの体、犬たちの体、あの野に咲くきれいな花々のいのち。なんと素晴らしく、そして不思議さに満ちたこの世界でしょうか。
しかし、ラブラドール犬のディドとその代弁者ピンチャー氏は、私ほどいろいろ言ったりはしないで、「来世」については、最終的に、全能の神さまに、全てをおまかせしている。立派な謙虚な姿だな~と、ばかげた差別主義者、人間中心主義者たちに向かってやや過剰反応したり、時には過激な反論をしてしまう私は頭が下がる。
いずれにしても、人間も、犬も、あの宇宙の星屑から高度に神の手の中で進化してきた「いのち」ではあるが、やがて誰もが確実に死の時を迎える。その後、もし、この「いのち」に来世が用意されるとしたら、どんな来世であってほしいのか、人それぞれに、夢や希望を持つ自由はある。願いや祈りは許される。
例えば私は、こうも考える。いのちに終わりが来て、死を迎える犬も人間も、その構成素材がいのちを失う瞬間に、ある種のエネルギー(いのち=魂=心=記憶)が、この三次元と時間の宇宙空間に解放(放出)されるのではないだろうかと。そして、宇宙のはじまりに姿を見せていたらしい十一次元のような、不思議な異次元(天国=来世)へ、神によって招かれるのではないかと。

さて、冒頭で紹介したかわいそうな象に見るように、宇宙の素材で出来た体(土の器)を持つがゆえの苦しみ、そして悲しみの姿。そして、人間を最後まで信頼しつつその「いのち」が消えてゆく死の姿に、私は感動し、また悲しみで震える。
しかし、こうしたあらゆる動植物たちのそれぞれの「いのち」の脈動は、この世では確かに有限であるが、天国へ持ち帰る宝としての「いのち」の輝きを放っている。それは来世が持つ価値を先取りして、私たちに具現している姿ではないのか。
私は思う。それは、「来世」が持つ価値を先取りして、現実のこの世において、私たちに、神が創造された「いのちの持つ尊さ」を、いのちを賭けて教えている存在が、犬たちや、冒頭に記した「かわいそうな象」たちではないのかと。
犬たちなどが持つ、いのちの輝きの素晴らしさ。こうしたいのちこそ、実はこの宇宙が目指す最終目標、最終目的なのではないだろうか。そうでなかったら、この宇宙のどんな物質もエネルギーも、ただのゴミでしかない。ただの137億年の無駄時間、無駄宇宙、無駄物理法則、無駄進化でしかない。私はそう思う。
犬のディドと代弁者のチャップマン ピンチャー氏は、仏教に触れる機会が、あまりなかったようで、「仏教の教えについては、よくわからないが」とだけ語っている。
その仏教は、人間だけを決して特別視などしていない。親鸞二十六歳の時、妙齢の美しい女性との出会いがあった。年始の所用を済ませ、山に帰ろうとする親鸞が比叡山のふもとにある、赤山禅院という神社の前を通った時のことである。親鸞の初恋の人と言ってよい、その美しい女性に親鸞は出会う。
その女性は、仏典の一つ「涅槃経」(ねはんきょう)にある一文、「山川草木、悉有仏性」(さんせんそうもく しつうぶっしょう)の言葉を口にし、このように、すべてのいのちに仏になれる可能性があるというのに、なぜこのお山は女を差別するのでしょうかと、疑問をぶつける。
この経典には、猫でも、牛でも、豚でも、鳥でも、蜂でも、山や川、草や樹も、犬でも、人間でも、男でも、女でも、雌でも、牡でも、仏になれる可能性はすべてのものにあると、記されている。それなのに、何故、女は比叡山に入れないのか。それが、この女性の疑問だった。この時の親鸞は、返答できず、一人比叡山へ帰っている。
この「涅槃経」の一文に限らず、どうやら仏教では、全ての「いのち」は平等であると教えているようだ。よく仏教徒の方や仏教関係の方から「キリスト教は人間中心主義」との批判を受けることが多い。確かに私も時として、キリスト教関連の書物を読んで、そう強く感じることがある。しかし、聖書を広く、深く読むと、本当は聖書も、仏教と同じで、人間も犬も他の動植物のいのちも神から与えられ、いつも神の支配の中にあると明記している。今まで、私が語った繰り返しとなるかもしれないが、以下に少しまとめて聖書の言葉にも触れて記しておきたい。
キリスト教は人間中心主義か 「NO」である。
「キリスト教は人間中心主義だ」との批判は、間違った聖書の読み方、間違った聖書理解に立った人々の言動に起因しているのであって、聖書は本来的には、むしろ、そうした人間中心的な傲慢さを、人間の罪深さを指摘している書物である。たとえば旧約聖書のコヘレトの言葉3章18節~21節には以下のように記されている。
「人の子らに関しては、わたしはこうつぶやいた。神が人間を試されるのは、人間に、自分も動物にすぎないということを見極めさせるためだ、と。人間に臨むことは動物にも臨み、これも死に、あれも死ぬ。同じ霊をもっているにすぎず、人間は動物に何らまさるところはない。すべては空しく、 すべてはひとつのところに行く。すべては塵から成った。すべては塵に返る。人間の霊は上に昇り、動物の霊は地の下に降ると誰が言えよう。」
この旧約聖書のコヘレトの言葉の前に、私たち人間は謙虚に耳を傾け、心に深く刻む必要がある。聖書が語る神は、決して人間だけの神ではないのだ。他の動物たち、小鳥や犬や猫も、金魚にも、神の目は注がれ、一羽の雀さえも、神の許しがなければ地に落ちることはない。また野に咲く草花が、今日は生えていて、明日には炉に投げ込まれるにしても、その草花の生と死にも神の目は、心は注がれている。すなわち小鳥一羽の誕生にも、死にも、野に咲く草花の生と死にも、聖書の神は関わり、最終的な責任者なのだ。新約聖書のマタイ福音書10章29節には、イエスキリストの言葉として以下のように記されている。「二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。」
もう一個所旧約聖書の詩編36編7節の言葉も添えておきたい。「 恵みの御業は神の山々のよう/あなたの裁きは大いなる深淵。主よ、あなたは人をも獣をも救われる。」
神の心は全ての被造物にのぞみ、なおあまりあり、どんなにミニマムな世界にもくまなく入り込み、マクロなる全宇宙にも、その神の目はくまなく注がれている。今まで記してきたように、犬はもちろんのこと、どんないのちにも、驚くような宝が隠されているのです。この宝とは「神の心」、「神の霊」に通じるものであり、神から与えられた「宝」ということも出来ます。宇宙の何処を探しても、これに優る「宝」などないのです。何故なら、この「宝」こそが、宇宙存在の目的であり意味なのです。私はそう信じている。そして、この犬たちや他の動物達の心の働き(宝)に気づくならば、仏教や聖書の教えは、より正しく、より深く理解できるようになるに違いない。
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